中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

読書について先人の厳しい意見 なるほどですが、実行は困難伴う 私見は「諦めも肝心」

f:id:xmichi0:20200209220121j:plain

多読な人の本棚のイメージ
読書について、先人が昔から語っています。
今日はショーペンハウエルの見解もとに、それに対する私の言い
わけです。
1.ショーペンハウエルの3つのコメント
取り上げるのは、彼「読書について」から、3点
(1)読書とは、他人にものを考えてもらうこと
(2)読書と思索の上手なバランスにより、人生の達人になる
(3)難しくて理解できない本は、それを書いた著者が悪い
ショーペンハウエルの何たるかは、ほかに譲ります。
上記3つのコメントにさっそく、私の言いわけを付けていきます。
 2.読書とは、他人にものを考えてもらうこと
 ショーペンハウエルは、単に多読を重ねているだけだと
「しだいに自分でものを考える力を失っていく」、といいます。
厳しい指摘ですね。
本を読みながら、相手の理論を追っていて、それが自分なりに理解
できると、「自分で考えている」という錯覚に私は陥りがちですが、
これは「自分で考えている」ことの前段階にある、「相手の言うこ
とを理解した」というレベル、なのですね。
 3.読書と思索の上手なバランスが必要
これもその通り
しかし、思索するには、
自分の中に考える軸が必要で、情報の蓄積がないとだめですよね。
(1)情報の蓄積において、先人はだれしも「古典の必要性」を
説きます。
このショウペンハウエルだけでなく、パッと浮かぶのが、モンテー
ニュのエセーのなかマキアベリーの君主論、ディスコルシ、ソロー
の森の生活、繰り返し「古典を読むべし」が出てきます。
日本の古典論も幾多もあり現代人では小林秀雄岡潔もありますね。
ここでは出口治明さんから、いくつか引用しましょう。
「長年の淘汰に耐えて生き残ってきた文章だから、古典は文句なし
にいい」
 「優れた古典は、歴史であれ文学であれ、人間と人間が創り出す社
会に対する鋭い洞察に満ち溢れているが故に、凡庸な現代のビジネ
ス書を遥かに凌駕して私たちの血肉となるのだ。
言い換えれば、優れた古典は、歴史も文学も、勝者と敗者を余す
ところなく描き切る。

これに対して、凡庸なビジネス書は、功成り名を遂げた成功者の

懐古談の類であることが多い。」

(2)出典を忘れましたが、以下はよくあるジョーク

「自分なりに功成り名を遂げて成功者と思っている人が

自分の成功の秘訣はこれだ、後人に遺してあげよう、と老境に入り

悦に入って書き残したが、実は何のことはない。

同じ内容がもっと深く、かつ洗練された形で、2000年以上前にす

でに、考察されていた・・・

個人の能力なんて、そんなものかもしれません。

人間の本質は、昔から変わらないですよね

 4.難しくて理解できない本は、それを書いた著者が悪い
 (1)思わぬ援護射撃に、ニタリ、と言いたいところですが、どうで
しょうか。
確かに出口治明さんも、恩師である国際政治学高坂正堯氏の言葉と
して「古典が解らないのは自分がアホ、新書を読んで解らないのは
著者がアホ」
を、よく引用しています。
厳しい言い方ですが、これが該当するのは、ある程度の基礎力がついてから。
基礎力をつけていないまま、自分が解らないのは相手が悪い、と言
ってもむなしいばかり。
(2) このブログでも紹介していますが、数学や哲学の書籍、現代
人学者の古典の解説文もあります。
「やさしく解説」との案内もありますが、私がそれでも解らない。
この場合、冷静に考えて、「私がアホ」が正解でしょう。
基礎的な読解力、土台となる周辺意識をつけておいて、はじめて新書
の著者を批評できる基準が培われると思います。
しかし、どんなに頑張っても、解らない世界はあります。
その場合、潔くあきらめましょう。
 5.感想
情報を得る手段として、読書の位置は、少なくとも自分の中では変わ
らない。
 優れた先人から、学んでいきたい意識もずっと変わらない。
末長く、できれば、私の脳が受け付けなくなるまで、付き合ってい
きたいと思っています。
 紹介は、ショウペンハウエルの読書論、次にソローの森の生活から
読書についての該当部分です。
 森の生活 岩波文庫上巻 179 読書の項目にあります。