『君主論』をよむ
著者 鹿子生浩輝/著
出版者 岩波書店 2019.5
内容としては、「 祖国と家族、自由と人間を愛したマキァヴェッリが、
真に伝えたかったこととはいったい何だったのか。
『君主論』を中心に、マキァヴェッリの実際の政治思想を明らかに」
しています。
1.目 次
はじめに
第1章 書記官 マキァヴェッリ
第2章 新君主の助言者
第3章 善と悪の勧め
第4章 フィレンツェの「君主」
第5章 フィレンツェの自由
第6章 イタリアの自由
2.ピックアップ
マキァヴェッリ は、政治職の獲得のためにメディチ家に自らを売り
込もうと考えてきた。
そこで思いついたのがメディチ家の役に立つ著作を執筆することで
あった。
『君主論』は、いわば就職論文である。 P40
第一 君主は、気前が良いよりもけちでなければならい(第十六章)
第二 君主は、憐れみ深いよりも残酷でなければならない。(第十七章)
第三 君主は、愛されるよりも恐れられなければならない。(第十七章)
第四 君主は、信義、つまり約束を破ってもかまわない。(第十八章)
P48
実のところ、以降に見るようにマキァヴェッリは、一般的な状況を
想定した場合は有徳な行動が権力の維持にとって合理的であると認
識しており、その点で伝統的な見解と同様の見解を抱いている。
マキァヴェッリが、悪徳を勧めているのは、読者である君主が極めて
特殊な状況に直面するとみているからであり、彼の悪名高い助言は、
彼のそうした状況認識を把握しなければ、適切に判断されえないだ
ろう。 P51
マキァヴェッリは、極めて支配が困難な状況、つまり新君主国へと
考察の対象を絞り込んでいるのである。
デ・ファクトに支配者となった新君主は、支配の正当性がないため、
新しい臣民の自発的な服従を見込めず、彼らによる武装抵抗に直面
する。
だとすれば、そこで描かれている人間が邪悪である理由は、マキァ
ヴェッリが悲劇的な人間観を抱いていたからではないだろう。
そもそもそうした人間を想定せざるを得ない特異な政治状況にマキァ
ヴェッリが意識的に目を向けたからである。 P56
新君主は、君主としての資格や権利を持たず、支配の正当性を欠い
ているため臣民からの自発的な服従を見込めない。
政治状況である。 P84
マキァヴェッリが力説しているのは「自前の軍隊」の形成であり、
「自前の軍隊とは、臣民か市民か部下から構成されている」
自前の軍隊は、(中略)いずれも君主ないし共和国に忠実である。 P86
君主は、軍事訓練を積むとともに、軍事目的から歴史書を読まなけ
ればならない。
この点にマキァヴェッリの人文主義的な姿勢、すなわち、古代を重
視し、古典から何かを積極的に学ばねばならないという姿勢が表れ
ているといえよう。 P86
マキァヴェッリは、『君主論」』で、権力奪取とその直後の状況を
中心的な考察対象としているため、新君主に要請される政治的資質
は、暴力や悪徳をその中核としている。 P90
彼の想定している政治状況は 、現代の多くの先進国のような比較的
安定した状態ではない。
それを現在で探すとすれば、革命や内戦が続く過酷な国家や地域の
見出さねばならないだろう。
マキァヴェッリは、『君主論』で、従来の論者たちが例外的として
いた状況を正面から論じていることになる。 P100
議論の4点まとめ(私の要約)
➀ 『君主論』の独自性は権力簒奪を想定し、そこでの君主の振る
舞いを本格的に構想
②世襲君主においては、徳が必要資質。新君主国やその他の非常時
には君主は悪徳を行使せざるを得ない
③助言の内実は、さほど衝撃的でなく、常識的である。
④権力簒奪の特殊状況を脱した場合には、臣民との信頼関係構築を
勧める P117
『君主論』が想定している統治対象は、二種類あり
当時の知識人も、メディチ家が二種類の統治対象を獲得していた
ため、この二種類の国家を論じている。P148
市民軍を組織せよという主張は、マキァヴェッリの生涯一貫した
持論であった。 P181
マキァヴェッリが一つの共和国によるイタリアの帝国的支配を理想と
していたことが確認できよう。 P203
(「あとがき」から)
自分にとって自明となっている価値や思考を反省的に問い直すためには、
自分とは異なる他者が必要であり、歴史的著作は、そうした他者の見解を
現代人に忌憚なく主張しているゆえに意義がある。 P248
3.感想文
いろんな読み方がありますが「岩波新書」からでているからと言って
「入門書」とみるのは、私もどうか、と思います。
『君主論』を読んだ前提がないと、難しいと感じるはずです。
ある程度、マキァヴェッリを読み込んでいる人に、さらなる背景の理解、
考え方を深めるものとして、役立つ書籍かと思います。
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