中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

韓非子から抜粋 その1 人間は変わらないから、生き残り古典となる書籍がある

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君主と宰相のイメージ

 1.韓非子とはなに?

言わずと知れた「韓非子」と冒頭書こうとしたのですが、僭越です

ね。

これだけ情報があふれ、考え方が多様化した現代で、「この古典は共

通認識だ」と自分勝手に、思う方が変ですよね。

まずはwikipedia使って、「韓非子とは?」から

韓非子』(かんぴし)は、中国戦国時代の法家である韓

非の著書。

内容は春秋戦国時代の思想・社会の集大成と分析とも言え

るものである。

 後世では、蜀漢の丞相の諸葛亮が幼帝劉禅の教材として韓

非子を献上している。

 次に、思想の背景の部分から、抜粋すると

韓非の生まれた戦国末期は、戦国七雄と呼ばれる七ヶ国に

中国は集約され、春秋五覇の時代を経て徐々に統一の機運

超大国出現の兆しが生まれ始めた時期であった。

統一への動きとは無論、諸国の存亡を賭けた戦いの連続で

あり、国家同士の総力戦でもあった。

そして過酷な生存競争は、人材登用の活発化にも繋がって

いった。

それまで君主の血統に連なる公子や貴族などによって運営

されていた国政も、階級が下の士大夫や素性の知れない遊

説の徒などに、君主の権限が委譲されることも珍しいこと

では無くなっていた。

君主に権力を集中し、それを迅速に適材に委ねる必要があ

ったのである。

 2.私の前口上

 手元にあるのは、岩波文庫版です。

末尾に紹介している本です。

今回その3冊目、4冊目から、過去に私が、折り目をつけていた部分

から抜粋。

時間軸で、紹介している訳でないので、読んだ時の私気分を反映して

いることは否めません。

なお、「その1」と書いたのは、今後も折に触れて、紹介しようか

との趣旨からです。

韓非子」は古いとか、説教臭い、とか思えません。

「人間の変わらない部分」を鋭く突いていて、今日まで、生きながら

えてきた書籍かと思います。

  .ピッアップ

管仲は答えた。「殿には側近の願いごとをお聞きいれなさるな。

当の人物の能力によって俸給を授け、その功績をよく調べて官職を

与えるようにされたら、進んで官職を求めるような者はいなく

なります。 殿には何の心配もないことでしょう」

外儲説左下 第33 第3冊 P116

 

(君主の力か、臣下の貢献かの議論)

〇およそ五人の覇者が天下にその巧名をあげられたのは、必ず君主も臣下も

ともに力をつくしたからである。

だから、叔向と師廣との答えは、どちらも偏った意見である、というのだ。

難二 第37 第3冊 P298

 

〇昔の人が財貨を軽んじたのは、人徳があったからではない。

財貨がたくさんあったからである。

いまに人が争って奪い合うのは、心が卑しいからではない。

財貨が少ないからである。

天子の位をやすやすと退いたのは、人格が高潔だからではない。

天子の権勢がわずかであったからである。

役人の地位を求めてどこまでも争い合うのは、人格が下劣だから

ではない。

役人の権力が大きいからである。

だから、聖人は財貨の多少を調べ、権勢の大小を考えて、その政治

を行うのである。

そこで罪が軽くてもそれを敬愛であるとは言えず、刑が厳しくても

それが残酷であるとは言えない。

世間の動向にあわせて行ったものだからである。

だから、事は時代に従って変わり、対策はその事に合わせて立てる

べきである。

五と 第49 第4冊 P172

 

〇国が平和な時は儒者や任侠者を養い、国難がやってくると戦士に

頼る。

養っていた者は頼りにならず、頼る者は養っていた者ではない。

これこそ国が混乱するもとである。  (中略)

正しいとしながらそれを官庁で実施することもなく、間違って

いると考えながらその端緒を絶つことをしない。

正しいと考えながら実際には採用せず、間違っていると考えなが

ら断ち切ることもしないのは、国が混乱して滅亡する道である。

顕学 第50 第4冊 P221

 

〇知者はその謀りごとの善し悪しを愚人によって決定され、賢人は

その行動の善し悪しを小人物によって論評される。

してみると、賢才知能の士はいつになったら採用されるのであろう。

こうして君主の目はふさがれたままなのである。

人主 第52 第4冊 P259

 4.私から一言

意をくもうすると、長い引用になりそう、さりとて私が変に要約するのも

はばかられる、という訳で、今回なかなかうまくいきません。

韓非子を読んでいて、「なるほどね」、と思ったり「当たり前だ」と思っ

たり、また新規性も面白みも書ける、と生意気に思ったりしますが、

古臭さは、感じません。

どこにでも、いるの時代にも、あるような、話。

いつも、私がこのブログで書くように、「人間は、変わらない部分が多い」

から、古臭さを感じないのでしょう。

それが、古典が生き残っているゆえん、でしょう。

  近いうちに「その2」をアップしたいです。