中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

八田與一(よいち)台湾でおそらく一番著名な日本人 末尾に私見を少し

f:id:xmichi0:20170918012507j:plain

台湾台南の烏山頭ダムのイメージ

1.海外の方で有名な日本人

新型コロナウイルスが・・・」と枕詞みたいな昨今です。

それこそグローバルに、この話題の報道があります。

「ヒトの目を気にする」「ヒトの評価が気になる」というのは

誰しもでしょうが、(出身地の地元は別として)日本より、海外で著名

な人物というのは、割とよくあると思います。

・「上杉鷹山」は米国大統領のジョンケネディが、「尊敬する日本

人」として引用してから、国内で一層著名になりました。

NHKドラマになった「おしん」は、一番番著名な日本人?

・私は実例をひけませんが、映画やアニメの主人公、原作者もそう

では?

・悲しい話ですが、第二次世界大戦後、シベリア抑留され中央アジア

強制移住させさられ、土木義実の成果で地元貢献した「名もなき日

本人」も、たくさんいたのでしょう。

(いくつか読んだのですが出典を忘れました)

2.八田與一(よいち)とは?

さて、「私の台湾好き」も、各所で触れていますが、

今日は、八田與一(よいち)について、少し触れます。

要約すると

八田與一、土木技術者で、1920年に着工し10年の歳月をかけ

て1930年烏山頭ダムを完成させる。

・農業灌漑を主目的として建設され、地域はダム完成後に台湾

最大穀倉地帯になる。

・このダムを建てた八田功績に関して、台湾の人々は非常に感謝

ている。

当時東洋一!台湾で今でも尊敬される八田與一が建てた「烏山頭ダム」 | 台湾 | LINEトラベルjp 旅行ガイド

(上記を参考に要約)

 3. 生い立ちから台湾での仕事

1886年明治19年)に石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)

に生まれる。

・1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、

台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。

 ・当初は衛生事業に従事し嘉義市台南市高雄市など、各都市

上下水道の整備を担当した。

・その後、発電・灌漑事業の部門に移った。

・1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった

台南水道の事業で実地調査を共にするうちに八田は浜野から多く

のことを学び、後述の嘉南大圳や烏山頭ダムにその経験が活かさ

れることになった。

 ・八田は28歳で、当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任

されたがこれを成功させ、高い評価を受けた。

・当時の台湾は、まさに上述のインフラストラクチャー建設のま

っただ中で水利技術者には大いに腕の振るい甲斐のある舞台であ

った。

 4.嘉南大圳

・1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。

・嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が

不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は

常に旱魃の危険にさらされていた。

・八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、

さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する

計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認め

られた。

・事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成

して施行し、半額を国費で賄うこととなった。

・このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師

となり、1920年大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至

るまで工事を指揮した。

・そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯

水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路

も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。

・この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれて

いる。

・ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・

病院なども建設した。

・爆発事故の翌年には関東大震災が起こり予算削減の為に作業員を

解雇しなければならなかった。

・八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、

有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もした。

 5. 台湾総督府復帰から殉職

・1939年(昭和14年)、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師

として台湾の産業計画の策定などに従事した。

また対岸の福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を

受けるなどしている。 

・太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって

客船大洋丸に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため

広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、アメリカ海軍の潜水

艦の雷撃で撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。

 6.私の感想

も持ち論、今日の小ブログの趣旨は、台湾の教科書にも載る八田與一

の紹介ですが、個人ブログたるゆえんは、

私の感想も入れないと・・・・・

 「八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、

有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もした。」

の部分です。

当然、組織を効率的に維持する立場からすれば

「より無能なものから解雇し、有能なものを残す」が正解です。

ほとんど100%の経営者が「経営責任」としてそう判断するでしょ

うし、おそらくビジネススクールでもそう教えるのでは?

 しかし、一歩進んで考えると、経営と同じくらい、それ以上に

「作業員の行く末を深く考えている」として、いい話として、

市井の人々の琴線に触れるのかもしれません。

そもそも、労働を「罪」と考えるキリスト教世界と違い・・、なんて

論陣を張る元気は、このブログではありません。

 お前は、どうなのか、と聞かれても明確には、書けません。

ただ想像するには、想定される批判も十分考慮した上の、苦渋の決断で

あっただろうと、いうことです。

八田與一の業績、ほかの記事に譲るとして、この末尾の部分、彼の苦悩

を書きたかったためです。