前回、前々回の紹介は4月2日と4月15日です。
史記列伝の「大史公(司馬遷)曰く」の引用とコメント その1 - 中高年michiのサバイバル日記
史記列伝の「大史公(司馬遷)曰く」の引用とコメント その2 何より力強さを感じます - 中高年michiのサバイバル日記
今回は「その3」ですが、「その1、2」と同じ構成にします。
一度整理します。
って編纂された中国の歴史書である。
正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。
計52万6千5百字。
司馬談が既に持っていた。
したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌紀元前98
年に宮刑に処せられる。
この際、獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分
もしっかりとした歴史書を作り上げようと決意した。
紀元前97年に出獄後は、執筆に専念する。
結果紀元前91年頃に『史記』が成立した。
な記述がある為に隠されることになり、宣帝の代になり司
馬遷の外孫の楊惲が広めたという。
その中でも、極めて面白いのは「列伝」です。
これも繰り返しの愛読書ですが
筆者司馬遷の論評である「大史公曰く」は、非常に考えさせられ
る部分がたくさんあります。
今回も私の主観で、ランダムに取り上げます。
これに対して、私のコメントを述べるスタイルとしてみます。
2. 引用 (その3)
もしも韓信が道理を学び、謙虚で、自分の功績を誇らず、
その才能を 鼻にかけなかったならば、ほどんど理想的な人
となれたであろう。
漢王室に対する勲功は、周公・召公・大公など一連の人に
もくらべら れ、後の世までもおお祭りの添え物をうけられ
ただろうに。
これらのことに努力せず、天下の大勢がすでに決定してか
ら、反逆を 企てた。
一族が皆殺しにあったのも、当然のことではなかろうか。
淮陰侯列伝 第三十二 三冊 P37
michiコメント
韓信が大立者であったことは、実績が証明しています。
「韓信のまたくぐり」はじめ、彼は一般人にも著名です。
司馬遷の立場上、韓信の評価に関して漢王室への遠慮を感じます。
田横は高い節義を持った人であり、食客はかれの節義をし
たい、後を追って死んだ。すばらしい人間ではないか。
わたしはだから列伝にのせたのである。
それにしても(彼らの中に)策略の上手なものがいなかった訳
ではないのに(田横らの最期を)どうすることもできなかった
のは、なぜであろうか。
田たん列伝 第三十四 三冊 p63
michiコメント
好人物として司馬遷は気にいっている様子です。
「わたしはだから列伝にのせた」という表現は、他では私は
見ていません。
そもそも高祖は微賤のうちから身をおこし、海内のこらず
平定したのであって、戦略と用兵については、あらゆるこ
とを知りぬいていた、と言ってよい。
ところが劉敬が車の引き綱から体を離して献策するや、万
世までも安泰となる基を築いたのであった。
やはり智謀は一人が独占できるものではなかったのであ
る。
劉敬・しゅく孫通列伝 第三十九 三冊 p144
michiコメント
いかに自分がすぐれ、他者も掛け値ね無しに認めているとしても
他者の意見を聞いてみるてみることは重要、その意見を採用す
るのはさらに度量・力量が必要ということでしょうか。
これもいつの世にも通じる話。
かれがみずから敵の軍を全滅させ、敵の旗を奪い取ったこ
とはしばし ばであった。
「壮士」と称してよい。
それでも死刑に処せられる期限が身にせまったとき、かれ
は奴隷に身 をおとしても、なお死ななかったが、なんとよ
く耐え忍んだものであ ろう。
きっとかれは、みずからの才能をたのんでおり、辱めを受
けても恥とは思わず、自分の才能の生かし方がまだまだ不
十分なのだ、と考えて いたのだろう。
だからついに、漢の名将軍とうたわれるようになったので
ある。
まったく、すぐれた人物は、その死がいかに重要である
か、をよく認 識している。
季布・らん布列伝 第四十 三冊 P157
michiコメント
何事においても「みえている」ということが、優れている人の条件
なのでしょう
3.最後に
です。
いつもと同じ感想ですが、「古さ」を感じないのは、そもそも、人間
が変わらない存在だから?
過去先人が分析しつくしていることではあるでしょうが、
私が改めてゆっくり読み進めていて、司馬遷の強い執念を感じます。
「史記」を完成させることが、司馬遷にとって、生きている証だった
のでしょうね。