1.モンテーニュの「エセー」とは
韓非子 司馬遷(史記列伝)、マキアベッツリ、ロシュフーコー等々
このブログで、私が長年読んでいる古典を引用・紹介していますが、
今回はエセー、2回目です。
初回は、2020年4月28日にアップしています。
エセー(モンテーニュ)から引用 そのⅠ 人間性の大きな多様性と移り変わりやすさ こそがその最大の特徴 - 中高年michiのサバイバル日記
使ったネタ本は
エセー Ⅱ 思考と表現
モンテーニュ/[著]
荒木昭太郎/訳
出版者 中央公論新社 2002.9
です。(引用のページは、この本のぺ―ジです。)
「完全な中立性」というのはあり得ませんが、今回もwikipediaから
エセーの内容を引用してみると
モンテーニュの目的は人間、特に彼自身を、完全に率直に
記述することであると『随想録』の中で述べている。
こそがその最大の特徴であると認識していた。
「私自身というものよりも大きな怪物や驚異は見たことが
ない。」というのが典型的な引用句である。
モンテーニュは自身の貧弱な記憶力や、本当に感情的には
ならずに問題を解決し争いを仲裁する能力や、後世にまで
残る名声を欲しがる人間への嫌悪感や、死に備え世俗から
離れようとする試みのことなどを書いている。
(中略)
モンテーニュのエセーに明白に現れている思考の現代性
は、今日でも人気を保っており、啓蒙時代までのフランス
哲学で最も傑出した作品となっている。
フランスの教育と文化に及ぼす影響は依然として大きい。
フランスの元大統領フランソワ・ミッテランの公式な肖像
写真では『随想録』を手に持って開いている。
2.ピックアップ
(今回も私の主観、かつて付箋挽いたり、ページを折り曲げたりし
たものからのピックアップ。いわいる有識者の定番的な抜粋とは、
ずいぶん違っているかと思います。)
ほんとうのところ、嘘をつくということは呪われた不徳だ。
我々は述べる言葉によって始めて人間になるのであり、お互い同士結
びついているわけなのだ。 (想いを見つめて P13)
判断力はあらゆる事柄に適用できる道具で、いたるところに関係する
(想いを見つめて P25)
人間の生き方にかかわる哲学全体を、ごく普通の市井の人間のあるひ
とつの生活に対しても、もっと立派な実質を持ったあるひとつの生活
に対しても、まったく同様に適用することができるからだ。
おのおのの人間は、人間としてのありようの完全なかたちをそなえて
いる。 (想いを見つめて P74)
学識と真実は、判断力なしにわれわれの中に宿ることがあり得るし、
判断力も学識と真実なしにそこに宿ることがあり得る。
まったく、無知を思い知ることは、わたしの見るうちで、判断力の
はたらきのもっともりっぱでもっとも確かないくつかの証拠のひとつ
だ。 (学識の位置づけ P168 )
たぶん、わたしがたえず昔の人びとの考えとつきいあってることが、
そして過去のゆたかなかずかずの魂について描いている理想像が、
わたしに他人や自分自身をきらわせるのだろう。
(学識の位置づけ P256 )
これ(本のこと)こそ、この人生の旅路で私が見つけることのできた
最良の備品なのだ。 (学識の位置づけ P292 )
私は若い頃は、ひとにひけらかすために勉強した。
それ以後は、少しばかり、自分を賢くするために勉強した。
今は、自分の気を紛らわせるために勉強している。
けっしてなにか利得を身につけようとするのではない。
(学識の位置づけ P295 )
わたしは真実を、だれの手になかにそれを見つけても、歓待し、
愛撫する。
そしてここちよくそれに降参し、それが近づいてくるのを見れば、
遠くからでも、わたしのうち負かされた武器を差し出す。
(活動する知 P420)
3. 最後に
優れた古典については、「読むたびごとに、印象や解釈が変わる
こともある」、と聞いたことがあります。
我々は、生きている以上常に変化しているわけですから、古典に
限らず、接するたび印象は変わるのでしょう。
とはいえ、モンテーニュが読んできた書籍の積み上げには、物理的
時間も、理解度もかなうわけはないのだから、永遠に理解不十分
状態が、続きます。
そんな私ですが、wikipedia説明にあるモンテーニュの「思考の現
代性」は、強く感じます。
今読んでいる私が「面白い」と感じているから、紹介しているわけ
です。
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