日本の思想
丸山真男/著
出版者 岩波書店 1992.2
1.概要(感想ぶくみ)
タイトルにも、書きましたが、この本からの抜粋で、よく国語の「現
代文」の試験問題ができたとか。
「懐かしい」と言う方も多いのでは?
手元の岩波新書に「1961年11月20日第1刷発行」とあります。
「現代文」の試験とは言え、もう60年近くになるわけですね。
現代の「古典」と言ってもいいのでしょう。
なお、論文形式はともかく、講演会形式は、問題が作りやすいのかも
しれません。
さて、考えてみると「日本の思想」とは、新書形式の著作にしては、
たいそうな響きも感じますが、丸山真男ですからね・・・・
まえがき冒頭に下記文章があります。
外国人の日本研究者から、日本の「インテレクチュアル・
ヒストリィ」を通観した書物はないかとよく聞かれるが、
そのたび私ははなはだ困惑の思いをさせられる
それなら、私が書こう、というこでしょうか。
2.目次
Ⅰ 日本の思想
Ⅱ 近代日本の思想と文学
一つのケース・スタディとして
Ⅲ 思想のあり方について
Ⅳ 「である」ことと「する」こと
3.ピックアップ
Ⅰ 日本の思想
むしろ過去は自覚的に対象化されて現在の中に「
止揚」
されないからこそ、
それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。
思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズル
べったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。 P11
異質なものを思想的に接合する
俗流化した適用、を論じたあと
「無限抱擁」してこれを精神的履歴のなかに
「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なも
のは、精神的雑居性を否認し、世界経験の、論理的および価値的な秩
序を内面的に強制する思想。
Ⅱ 近代日本の思想と文学
日本ではまさに体系とが概念組織を代表していたのが、へーゲルでな
くてマルクスであった。
だからこそ小林秀雄は「意匠」によって武装された、「思想の制度」
としてのマルクス主義と主義者に激しく敵致しつつ、通貨形態をとら
ぬ前のマルクスやエンゲルスの個性的思考と「文体」の前に脱帽し、
またコトバとなった弁証法を極度に忌み嫌う反面において、曰く言い
難い究極のものに絶句したあげく奔り出た逆説としての弁証法を認めた
のである。 P118
Ⅲ 思想のあり方について
近代日本の学問とか文化とか、あるいはいろいろな社会の組織形態と
言うものがササラ型でなくてタコツボ型であるということが、先ほど言
ったイメージの巨大な役割とということと関係してくるんじゃないかと
思うわけです。 P120
われわれの国におけるこういう組織なり集団なりのタコツボ化は、封
建的とかまた家族主義というような言葉で言われますけれども、単なる
封建的とかまた家族主義とかいった、いわば
前近代的なものが、純
粋にそれ自体として発現しているというより、実は近代社会における
組織的な機能分化が同時にタコツボ化として現れるという近代と前近代
との逆説的な結合としてとらえなければいけないんじゃないか。
P139
全体状況についての鳥瞰をいわば
モンタージュ式に合成していくよ
うな、
そういうテクニックと思考法というものを、われわれが要求されている
んじゃないか。 P150
Ⅳ 「である」ことと「する」こと
この規定の根拠には、権利の上に長く眠っているものは
民法の保護に
値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。
この説明に私はなるほどと思うと同時に、「権利の上にねむる者」と
いう言葉が妙に印象に残りました。 P154
私たち日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッダ
返しのなかで多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに
明治末年に
漱石がするどく見抜いていたところです。 P175
現代日本の知的社会に切実に不足し、もっとも要求されるのは、
ラ
ディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的
に結びつくことでないかと。 P179
4.最後にまた感想
何回読んでも、難しい。
長い一文の中に、単なる言葉のいい替えでなく、範囲を限定したり、
条件を明確にしたりして、文章の密度を高めるともに、より解り易く
したいとの、筆者の意図は解るのですが、何せ私が意図する概念につ
いていけない、正確に把握できない部分多々です。
読んでいて、頭脳の筋力ト
レーニングをしているように、感じます。