中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

気候で読み解く日本の歴史(読書感想文も問題どき)気候での切り口による歴史理解は従前の私には不十分

 

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政治、経済々日本史の切り口はあれど、ここまで詳細な気候変動視点は初めて

気候で読み解く日本の歴史

異常気象との攻防1400年

田家康/著  

出版者    日本経済新聞出版社 2017

1.概要

 長期に及ぶ寒冷化や干ばつが引き起こす飢饉、疫病、戦争…。

日本の歴史は気候変動が動かしてきました。

律令時代から近代まで、日本人が異常気象にどう立ち向かってきた

のかを、豊富なエピソードとともに描いています。

 著者は、 1959年神奈川県生まれ。

81年横浜国立大学経済学部卒。

農林中央金庫農林水産金融部部長を経て、2011年より農林漁業

信用基金漁業部長、とあります。

学者出身というより、在野の実務家のようです。

01年気象予報士試験合格。

現在、日本気象学会会員、日本気象予報士会東京支部長、

(株)農林中金総合研究所客員研究員。著書「気候文明史」等

とのことです。

 2.目次

プロローグ 太陽活動と火山噴火がもたらす気候変動

第Ⅰ章 平城京の光と影

第Ⅱ章 異常気象に立ち向かった鎌倉幕府

第Ⅲ章 「1300年のイベント」という転換期

第Ⅳ章 戦場で「出稼ぎ」した足軽たち

第Ⅴ章 江戸幕府の窮民政策とその限界

エピローグ

(1)気候変動に立ち向かう鍵は何か

(2)明治凶作と昭和凶作

(3)おわりに

3.ピックアップ

 『続日本紀』の記述を見ると、8世紀を通じて全国的な飢餓の発生は

同時期に天然痘に限らず疫病の流行を持たらした。

その時期は、704年から707年、735年から737年、763年から764年、

773年から774年、789年から790年である。

地方で起きた飢饉と疫病まで入れると、697年から758年にかけての

両者の相関関数は0.88と極めて高い。

続日本紀』のでは「疫旱」として1つの言葉で表すことも多い。

高温乾燥で雨不足による飢饉が、疫病と強く関係していた。

奈良時代のその後の天然痘の流行は、763年及び790年と続き、いずれ

も干ばつから飢饉が発生し天然痘流行に至るというパターンであっ

た。  (P50)

 

平城京から逃げるような突然の行幸の理由について、国史には明確な

記載はなく、想像を働かせるしかない。

(中略)

聖武天皇は)干ばつ、飢饉、疫病、そして叛乱を呼ぶ都から、一刻

も早く脱出したかったのではないか。  (P54)

 

富士川の戦い平氏が一斉に飛び立つ水鳥の水音に驚いたという

話)を(平家は)駿河まで出陣したものの、兵糧が不足したことで

軍内に厭戦気分が高まり、撤退したのではないか、とみる。

平氏が拠点とする西日本が深刻な干ばつと飢饉に見舞われたのに対

し、頼朝が兵を募った東日本は「干ばつに不作なし、雨年に豊作な

し」の土地柄である。

1180年の干ばつが東日本と西日本の農業生産委全く逆の状況をもた

らし、これらが、治承・永寿の乱で頼朝が勝利する背景  (P91)

  

日本の歴史上最悪ともされる寛喜の飢饉の惨状に接し、北条泰時は超

法規的措置で乗り切ろうと企てたことが解る。

飢餓で死ぬのを待つだけであるなら、奴隷身分に落ちても生き残る道

という選択肢を禁制を曲げて是認したのだ。  (P112)

 

室町時代以降に気候が安定した時期が訪れると、水田二毛作はその威

力を発揮するようになる。

そして、農業生産性の向上が日本の人口増加の第三のピークを呼ぶ大

きな要因となるのだ。

その素地は鎌倉時代に底流のように流れる農業技術の着実な普及であ

り、これに加えて2つの飢饉を経て鎌倉幕府による水田二毛作を促進

する柔軟な姿勢が実を結んだ結果といえよう。  P149

 

中世後期は「自由な時代」であったとする見方がある。

確かに前後の奈良・平安時代や江戸時代に比べると、下克上という言

葉が代表するように社会階層が固定化せず、室町幕府をはじめとする

為政者の統制が緩いため、人々の中には才覚次第で出自を超えた暮ら

しを得た者もいたであろう。

世の中が活性化した面もあったろう。

とはいえ、技術や社会が発展したとしても、天候不順から凶作になり

飢饉や疫病が発生すると、自由な社会が逆に仇となる。

腕力ある者が自身の生き残りを第一に考え、他者から収奪しつくす

この自力救済の構図が戦国大名だけでなく、民衆にまで蔓延した。

 (P191)

 

江戸幕府の統治思想と言う意味で、寛永の飢饉は転換点であったの

だ。

酒造禁止令や粉食品禁止令のように、飢饉が過ぎた1641年に直ちに

解除されたものもある。

 一方で、零細農民が所有農地を豪農に売却する動きを封じるための

田畑永代売買禁止令は、江戸時代を通じて230年間効力を持ち続け

た。

小規模農民を没落から守るため、「生かさぬよう殺さぬよう」と象徴

的に語られる撫民政策は、寛永の飢饉への対策の中で固まったといえ

る。  (P211)

 

1756年から1786年にかけて、日本全国の人口は3,128万人から3,010万

人へと3.8%に相当する118万人の減少となった。

関東以北で146万人減少しており、特に東北地方太平洋側と関東で人

口減少率は1割を超えている。

宝暦の飢饉の影響も残っていたであろうが、主因は天明の飢饉に違い

ない。

まさに江戸時代最大の飢饉であった。  (P239)

 4.最後に

私がこねくり回すのでなく、「最後に」も引用とします。

「日の下に新しきものはなし」とは『旧約聖書』の言葉だ。

気候変動にせよ自然災害にせよ、こられに対するあり方と言う面では

我々の祖先が行ってきた方向と異なることはないだろう。

私たちは、先人同様に科学や技術の発展をたゆまず続けねばならな

い。 

 
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