人生に効く漱石の言葉
木原武一/著
出版者 新潮社 2009.6
人生に迷った時は、漱石流でいこう。
文豪が一生をかけて残した言葉には、時代に関係なく通用する、物事
の本質を見極める力が宿っている。
漱石の生涯をなぞりながら、その時々の印象的な言葉と効用を紹介。
今回の著者は、 文筆家の木原さん。
1941年東京生まれ。東京大学文学部卒。著書に「大人のための偉
人伝」「続大人のための偉人伝」「天才の勉強術」「人生を考えるヒ
ント-ニーチェの言葉から」「ゲーテに学ぶ幸福術」、翻訳書に「聖
書の暗号」「ロゼッタストーン解読」などがあります。
2.引用と著者コメント
漱石の膨大な著作ら、どこを引用し、どんな解釈、コメントをつけ
るかが、このコンパクトな一冊の命となりましょう。
「御前は必竟何をしに世の中に生まれてきたのだ」
彼の頭のどこまでこういう質問を彼に掛けるものがあった。(中略)
彼は最後に叫んだ。 「分からない」 『道草』(九十七)
(木原さんコメント)
このような難しい問題に突き当たったときの対処法のひとつに、問題
解決ではなく、問題回避という方法がある。『道草』の主人公、健三
が向かうのはこの方向である。 P14
人間はある目的をもって生まれたものではない。 (中略)
生きる目的は、生まれてきた人間本人が自分自身でつくったもので
なければならない。自分はこうしたいという「自己本来」の目的こ
そ、生きる目的である。 『それから』(十一)
(木原さんコメント)
見つめてはいけない太陽の光にこそ、人間を生かし、人生を豊かに
するものが秘められている。それを我々の視力に耐えられるように
示すのが文学の役割なのではなかろうか。 P17
私はすべての人間を、毎日毎日恥をかくために生まれてきたものだ
とさえ考えることもある。 『硝子戸の中』(十二)
世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。
一遍起こった事はいつまでも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他
にも自分にも解らなくなるだけの事さ。
『道草』(百二)
いくら自分がえらくても世の中はとうてい意の如くなるものではな
い。落日を回らすことも、加茂川を逆の流すこともできない。だだで
きるものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修行をしたら、
落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか。
『猫』(八)
運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。
『虞美人草』(五)
則天去私 (文章座右銘)
女はその顔を凝と眺めていた、が、やがて落付いた調子で
「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」といって、にやりと笑っ
た。三四郎はぷらっと、フォームの上へ弾き出されたような心持ち
がした。 『三四郎』(一)
(ここはmichiコメント :『三四郎』を読んだ人なら誰でも記憶にあ
る冒頭の部分、無論感じることはヒト様々でしょうが・・・)
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言った。こういい得た
時、彼は年頃になり安慰を総身に覚えた。なぜもっと早く帰ることが
出来なかったのかと思った。始めからなぜ自然に抵抗したのかと思っ
た。 『それから』(十四)
代助は暑い中を馳けないばかりに、急ぎ足に歩いた。(中略)
電車は真直に走り出した。代助は車のなかで「ああ動く。世の中が
動く」と傍の人に聞こえるようにいった。 (同十七)
(木原さんコメント)
自分は探すものではなく、自力でつくりあげるしかない。
人生の「それから」はすべてこの一事にかかっている。 P147
とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互いの間が窮屈に
なるに違いないよ。ニーチェが超人なんか担ぎ出すのも全くこの
窮屈のやり所がなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだ
ね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理
想じゃない、不平さ。 『猫』(十一)
3.最後に
私は、あまり小説は読まないし、読んだとしても勝手読みですが、さ
すがに夏目漱石や森鴎外等「古典」に値する部分は、先人の「読み」
を参考にします。
漱石は直近では姜尚中さんと、この木原武一さんの解釈を取り上げ
ました。
漱石も鴎外も私が一生かかっても、全容を理解できるレベルになく、
それゆえ死ぬまで彼らの小説を楽しめるでしょうが、個人としては
「会いたくない」部類の人ですよね。
「癇癪持ち」の夏目漱石への対応は、家族は大変だったようですね。
先般のブログを引用します。
今週のお題「会いたい人」私の場合亡くなっている祖父 いわいる書物上の人物は会わない方が無難 - 中高年michiのサバイバル日記