中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」 私は子供のころ同居でした。

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

はてなブログを書いている人の平均的な年齢を私は存じ上げ

ませんが、ゼロ歳から10代は、少ないだろうと思います。

ということは「おじいちゃん・おばあちゃん」が、現役バリバリ

の方は少数、多かれ少なかれ「昔話・思い出話」になるかと思い

ます。

私の場合もそうです。

父方祖父母ともに、当時の日本人の平均寿命を超えた「大往生」

だったかと思います。

母が他の祖父母は、いろいろありました。

以下、この父方祖父母の思い出話を、つづっていきます。

 

1.私は祖父母と同居でした

私の父は、長男で生まれた家に住んで、私の祖父母に育てられ

ました。

父には、弟妹が合計六人もいます。

当時としては、驚くほどの大人数ではありません。

農家ではなく、父は自営の小売業で生計を立てていました。

私は、そこで生まれ育つわけですが、祖父母は同居状態です。

田舎ですがら土地は安く、我が家もある程度の敷地はあります。

「同居」といっても、敷地の一角に離れがあり、祖父母はそこに

住んでいます。

現在は、その土地もないので、わかりませんが、

昔は代々「現役」夫婦が母屋に住み、隠居夫婦が「離れ」に住む

慣習だったのかもしれません。

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現実には祖父母はいつも和服でした

2.おじいちゃん

さて、お題の「おじいちゃん」です。

祖父は、明治の人間です。確か80歳台後半まで生きたと思います。

若いころは、親戚の呉服店の丁稚奉公だったようですが、祖父の兄の

急死により、実家に戻り、家業を継いだようです。

材木商はもうやっていなくて、私の記憶では、祖父の年齢とともに

縮小した質屋業だったようです。

叔父が、暑中で酔った時に、よく祖父の話を話をしていましたが、

「怖い怖い親父」だったそうです。

孫の私が知るのは「やさしいおじいちゃん」です。

冒頭書いたように同居ですから、「帰省した際のみ会う祖父母」

とは違います。

孫ながら、父母と祖父母の溝や対立を、感じることもありました。

「これも人間関係の勉強」というと、変にとられるかもしれませ

んが「核家族」とは違った経験は、たくさん下、ということで

しょうか。

祖父で、思い出すのは、庭掃除をしている姿、仏壇の前でお参りを

している姿、夕食に日本酒を飲んでいる姿です。

彼の趣味な美術鑑賞、特に日本画です。

前日に「離れ」の床の間に、掛け軸をかざし、その日本画を見る

のが楽しみだったようです。

家には土蔵があり、そこにたくさんの掛け軸をしまっており、それ

を代わる代わる掛けて、虫干し含め管理維持していくのが、楽しみ

だったのでしょう。

 

3.おばあちゃん

前述の叔父からの、祖母の話は、あまり覚えていませんが、叔父も

母親からそれなりに、怒られたし、気が重くなる体験はあるので

しょう。

私の場合は孫ですし、直接利害関係があるわけでなし、やはり

「やさしいおばあちゃん」の印象です。

彼女は、彼女よりもっと長寿、大人になって帰省した折、100歳

の誕生記念の市長発の賞状が、家に飾ってありました。

最も、最後は長らく痴ほう症を発していたようで、対応にあたる

父母は大変だったろうと、推測します。

もともと、女学校を出たインテリで、教壇に立ったこともある

ようですが、「勉強好き」のおばあちゃんでした。

当時の途方自治自治体?の「老人大学」があり、何回も入学と

卒業を、繰り返していたようです。

「学ぶ生徒」だけでなく、長らく「茶の湯の先生」をやってい

ました。

離れの一室の茶室があり、そこで教えていました。

詳細説明できませんが、湯を沸かす窯や茶わん他、茶室で見る

「セット」は当然完備していたようです。

昼間ですが、子供の私から見て「きれいなお姉さん」が、何人も

茶の湯を習いに来ていました。

私も「お点前」の抹茶を飲ませたもらったことがあります。

決して、甘いものではありませんが、私には、いける味でした。

 

3.最後に

小学生の日記みたいになりましたが、まさに子供の思い出話

ですからこんなものでしょう。

繰り返しましが、私が育つ頃同居していたわけですので、情報は

たくさんあります。

敬老、とか少子高齢化とか、経済視点からの一般論でなく、今日は

昔話に終始しました。