中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

基準が違うので、議論がかみ合わないはず コロナ、選挙、宗教観から。

今日は、また書評でも特定の社会問題でもなく、私の勝手な思索。

といっても、単純な話です。

よく「議論がかみ合わない」と感じることがありますが、往々にして

「基準が違うのではないか」と思いあたります。

1.PCR検査を例にとりましょう。

新型コロナを第二派だ、第三波だと、大騒ぎする人がいる一方で、

実質的には集団免疫達成、新型コロナウイルスも通常の風邪同様

すでに蔓延状態、ゆえに恐れるに足らず、との見解もあります。

私が不思議の思うのは、PCR検査の陽性基準について、一般人に

分かるように、なぜ誰も解説しないのか。

そもそも、検査陽性・陰性の一定の基準があるのか。

日本国内各地の基準もさることながら、米国、南米各国、欧州各国に

ついて、統一した基準があるのか?

統一した基準があるなら、なぜ公表しないのか?

例えば、ある数値基準が日本では陰性、米国では陰性、スペインでは

陽性なら、今の報道スタンスが、違う気がします。

「議論が、かみ合わない」のも当然の気ことで、何が議論が変です。

 

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和やかに、冷静に話し合っているイメージ

2.アメリカ大統領選挙

これについては、論点多数です。

マスメディアは、報道の中立性というより、共和党民主党それぞれ

の「応援団」の感があります。具体的には、有利不利の「客観的」報

道よりそもそもメディア自身の「こうありたい」との思惑があり、そ

れを反映した報道と感じます。

そもそも有権者と、投票者は違うわけで、投票者をどう予測するかで

精度を、争ってもらわないと、それこそ基準が違った、かみ合わない

事になります。

そんなことは百も周知での報道かもしれません、わざと「基準」をず

らす?

ちょっと脱線します。

その1:米国大統領選挙の選挙日は、火曜日で、これは憲法で決まっ

            ているそうです。日曜は教会へ行く。キリスト教の国ですか

            ら、そうなのでしょう。国土は広いし、昔は月曜に馬に乗って

   投票所まで出かけた。一日がかりもあろう。よって、翌日の火

   曜日が投票日だそうです。

   もちろん交通事情は、立法時と変わったにしても「憲法」事項

   ですから、改定の手続きは厄介ですね。

その2:これを書いているのは日本時間で11月4日午後です。

   「激戦州」のジョージアで90(~95)%ほど開票して、夜遅く

   なった ので開票スタッフは帰宅、また明日集計作業開始、との

   こと。

    国民性というのか州民の意向かは分かりませんが、「日本で

    は考えられない」感じです。

 
3.宗教上の議論
(1)これは、「基準」を超えた、世界観の話かもしれません。 
一神教多神教を例にとると、私自身は「神様はいたるところにい
る」という多神教的世界観ですので、頭では理解しても、一神教的感
覚が、解りません。
生死観もそうでしょうし、ましてや、「最後の審判」を待つという発
想は、欧米の映画の世界でもよく表現するでしょうが、私にはどうも
しっくり来ないのです。
(2) 少し、からみます。
原罪の西欧社会が、神が支配する「社会」から人が支配する「社会」
に変ったという説明は解るし、そこでの「基準」が法律というのも納
得します。
一方日本には「世間という基準」があって、法律に基づく罰則でなく
世間に迷惑をかけるか否かが、判断基準となり、自粛という行動規範
が意味を持つ事になります。
この「世間」の発想は、高齢者特有でなく、日本人に面々と続く感情
と思います。
「関係者のみの個人的なこと」である不倫やいざこざが、なぜか広く
直接無関係な人の関心を誘うし、「世間に迷惑をかけた」という発言
が出てくるし、また、どう考えても論理的でない「コロナな差別」が
日本各地で発生します。
また、空気を読む・読まない、とは、若者も使うし、世代を超えてあ
まり変わってないように、思います。
 
 4.まとめ
・基準が違うと、同床異夢であり、「ことを荒立てない」方向では、
コンフリクト(葛藤)は緩和されるかも知れませんが、詰めた議論を
すると、必ず「ずれて」来ます。
そもそも相いれないもの、ということのようです。
 ・宗教に話を戻すと、例えばイスラム教のように、生活様式を縛り、
世界観のもとになっている立場と、いわいる「葬式仏教」と捉え、あ
る生活の一断面のみに宗教が生きてくる世界とは、相容れるはずは
ないでしょう。
米国選挙に見られる「政治信条」もそれに近い。
一気に解決の処方箋などありませんが、解決の道に近づくのは、絶え
ない深い勉強を通じて、相手のことを理解しようとし、寛容の精神
をもつ、といういつもの結論にあるように、思います。