中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

癒しとしての死の哲学(読書感想文もどき)死は人間的な生の要素であり条件

癒しとしての死の哲学

小浜逸郎/著  

出版者    洋泉社 2009.7

1.概要

最も今日的な生とは、死とは何か。

脳死とガン告知を手がかりに、死との新しいつき合い方を問いかけま

す。また医療における死の問題を哲学的な死の考察に結びつける情理

を兼ね備えた試みです。

目次でいうと

 序章 死はなぜ話題となるか

 第1章 死と生をどう分けるか (脳死と臓器移植をめぐって)

 第2章 死を」どう受け入れるか(癌告知の方法をめぐって)

 間章 安楽死するための哲学

 第3章 死はいかい哲学されてきたか

 第4章 死をどう哲学するか    となります。

 

著者は、1947年横浜生まれ。横浜国立大学工学部卒。

批評家。国士舘大学客員教授。2001年より連続講座「人間学アカ

デミー」を主宰

小浜逸郎さんについては、11月9日に取り上げており、2冊目の紹介

です。

死にたくないが、生きたくもない(読書感想文もどき) 長生きしてしまうのは避けられない - 中高年michiのサバイバル日記

 

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ギリシャだけでなくハイデッカー含む哲学者全般

2.本文からの引用

今回は、私の関心と、理解度の点もあり、網羅的どころか、「間章 

安楽死するための哲学」、「第4章 死をどう哲学するか」、

「あとがき」からの引用となります。

第3章のソクラテスプラトンエピクロス、智顕、源信、モンテー

ニュ、ショーペンハウアー、第4章のハイデッカーは、面白かったの

ですが、うまく要約できませんでした。

 

ただ、長く生きたってしょうがない。大切なことは、いかに良く

生きるかだ。ボケたり体が不自由になったりして、周囲に迷惑を

かけるまで長生きしたくない。ーーーーこうした思いは、おそら

く誰の胸にも宿っているだろう。もっと露骨に言うなら、自分の

ことに引き寄せる以前の問題として、家庭や老人医療施設で実際

にきつい介護労働に日々携わっている人などは、本音の部分では

「もうこの爺さんも早く死んだ方が、お互いのためにいいのに」

思っている場合が多いのではないかと思う。

いったい誰がそれを非難できようか。 

P159 「安楽死するための哲学」から

 

安楽死尊厳死についての説明

安楽死:末期患者に対して、患者の同意に基づいて、呼吸を止める

注射などにより、積極的に死への手助けを行う。自殺ほう助厳格な

条件でオランダが認めている

尊厳死:これ以上医療行為を続けても苦衷を増すだけで回復が不可能

であるとの医学的判断のもとに、人工呼吸装置を取り外すなどの形で

延命措置の打ち切りを行うこと。 消極的安楽死

医学的根拠、本人(家族)と医師との間の明確な合意のもと法的問題

なし。結構普通に行われている。   P160

 

私は家族の共同性を、人間の生にとって、最も深い現実的根拠を有す

る共同性であると考えるものであるが、個人の死もまた、家族のなか

でこそ一つの物語として生き続けることができる。

家族はいやおうなくその成員の死を生きるのである。   P171

  

 この「同類でありながら離れている」という意識を最もはっきりと

システムとして体現したものは言語であるが、実は、死に対する認識

のしかた、他の人の死を自分の死と同質の問題としてとり込むしかた

のうちにも、その人間的本質が見事に刻印されていることを私たちは

知るのである。

身近な人の死に際して、あれだけ私たちが悲しんだり、弔いの儀式に

精力を注ぐというのも、単に「会えなくなる悲しさ」からそうしてい

るのではなく、死者の運命を、そのまま想像的にわがこととして重ね

合わせることができるという構造を基礎にしていればこそなのであ

る。 P247  「第4章 死をどう哲学するか」から

 

「死」を、単に活力の終焉とか、生命の終着点としてだけ考え

るのではなく、私たちの日常的な生の構造契機とみなすことで

ある。死は、実は人間的な生の要素であり条件なのである。私

たちの生は死の事実に見据えられ怯えているだけなのではなく,

むしろ生が持っている活力の側面もまた、その具体的な発揮の

方向性を死の自覚によって与えられるのである。したがって

私たちが「死を哲学する」営みとしてなすべきなのは,死に

対する人間に固有の気遣いの在り方が、人間に固有の生への

活力形式へと転化されたものとして理解することーーーそし

てこのことを、普通の「ひと」の存在形式において示すこと

をおいて、他ならないのである。  P268

 

事実としての人間の死は、身近な共同性の中で飲み、一つの確実な

物語となるのだ。   P271 あとがき

 

 この三冊を通じて、読者の皆さんに訴えたいことは「人間の

死は、その他の生物の死とちがって、死についての自覚を媒

介として、それ自体が私たちの日常的な生の在り方をすみずみ

まで規定する根本的な条件になっている」ということになろ

うか。  P277

 

3.最後に(感想文)

 小浜逸郎さんの2作目は、とてもハードでした。

解説で竹田青嗣さんが書いているように、「ハイデッカーの死の哲

学」を「やっつけて」います。

私は、ついていけず、置いてきぼり状態。

まあ、仮にあと私が20年、30年生きるとして、勉強と続けられたと

しても「完全理解」には、ほど程遠いかもしれません。

それはそれで仕方ない。

 小浜さんに限らず、今後本の中で出会う人々をよく見て、ぶつかって

いくだけです。