中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

解ったふりをすることも大事 相手に伝わるのはごく一部 そのうち解る場合もある

1.解っていることいない事

世の中の森羅万象を理解するのは、本当に難しくて、それはそれ

は不可能です。

自分がある程度知る世界であれ、多数の人に、『このひとは、解

っていないな』と、すぐ見抜かれてしまうこともたびたびあります。

政治や経済分野での実務運営者、マスメディア露出、言論・執筆

活動を生業とする人が『見ぬかれやすい』のは、たくさんの人に開

示する(したい)のだから、仕方ない面もあります。

しかしながら、さも解っているように主張をし続けると、しらけて

しまい、最後は相手にされなくなります。

ただし、情報の受け手に「解っている」人が少ない場合は、上手く

生き延びることはできそうです。 

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見栄を張る」より「見栄を切る」イラストになりました。

 2.解ったふり

 (1)昔、旧制高校生の読書リストに「デカンショ」があったそ

うです。つまり、デカルト、カント、ショーペンハウエルを読ん

で、理解して、議論するのでしょうが、現実はいかに?

時代も環境も能力も違いますが、個人の感想として書くと、デカ

ルトの方法序説や、ショーペンハウエルの読書論は、そのまま読

んで、なんとなくわかった気になります。

 一方、カントの「純粋理性批判」は中島義道さんの「『純粋理

性批判』を嚙み砕く」を丁寧に追ってはみましたが、それでも緊

張が続かないのが実感でした。

大正教養主義時代の祖先輩は、果たしてどれくらいの割合の人が、

デカンショ」をちゃんと読み解けたのでしょうか?

結論めきますが、

見栄を張り「解ったふりをする」ことも、大事な局面もありそう

です。

脱線しますが、昔職場で接した女性事務員の方が、「オシャレは

見栄よ、我慢よ、寒さは仕方ない」と宣っていたのを突然思い出

しましたが、何事も「見栄の観点」はありましょう。

(2) ちょっと気になった言葉があります。

 考えるきっかけとしての読書(スクリーンとしての読書) 

「読んでない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤー

ル)という、いかにも「そそりそう」な本が昔あって、本屋で実際

手に取って(持ち論日本語訳です)パラパラめくってたことがあり

ます。

今回、「メディア論の名著30(佐藤卓己著・ちくま新書)」を読み

ました。オオトリ、30冊の紹介で、同書を発見しました。

再度、記載すると(実は本年1月21日にこのブログで一度紹介してい

ます。)

 

紹介は「言葉」を通じて自分自身について語ること、つまり自ら

「内なる書物」を著すことへの試みである。

まだ読んでいない本とは現前する「他者」であり、それについて

語ろうとする試みは自己発見の可能性を秘めた対話的コミュニ

ケーションなのである。

 

3.最後に

今日は、ぐるぐる意味不明なことを書いてきましたが、言いたいこと

のひとつは

自分で解っていなことでも、相手と意思疎通できることもあるし、

逆に、自分が「解っている」と思っていても、相手に通じない事も

多々あります。

長い一生のうち「解る」場合も出てきましょう。

まあ、あまり深刻に考えても仕方ありません。