中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦前の中高年がざっくばらんに書きつける日記

伊豆の下田で考えたこと 歴史に「たられば」は禁物だが

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ペリー来航、黒船のイメージ

1.先日、伊豆の下田

に行ってきました。

プライベートです。

下田は、キンメダイの水揚げ量日本一だそうです。

街をあげてのキンメダイのPR、下記伊豆下田観光協会も力を入れて

います。

食しませんでしたが「キンメダイコロッケ」も、よく見かけました。

伊豆下田観光ガイド-伊豆下田観光協会公式サイト- | 伊豆下田

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昼に食べたキンメダイのどんぶりです。

 

掲載写真は、昼に私が食べた、キンメダイのどんぶりです。

飲んべいで、魚も好きな私はキンメダイの煮つけは各所でよく

酒の肴に注文しますが、「どんぶり」はあまり記憶にありません。

2.下田港

ロープウェイで山に登り、ペリー船団が来た湾を上から眺めて

なるほどと思ったり、市内をゆっくり歩いたりしました。

天気もよかったし、それほど強風でももなかったので、観光散策

には助かりました。

下田港の山の上からの眺めは、「なるほど」と納得。

つまり、ずっと頭をよぎっていたは、江戸時代の西回り航路の船員

しかり、太平洋をはるばる渡ってきたペリー艦隊の船員しかり。

厳しい外洋を長らく航海して「生きた心地しない」ような嵐の体験

が幾多では?

そして、天然の良港下田に逃げこむことができて「助かった」とまず

安堵したのではないかと、思います。

下記掲載の湾の奥にペリー艦隊の7隻も、停泊したそうです。

無論素人と考えですが、風を遮る山の壁がいく通りもあり、きれい

で豊かな淡水の水がある、温暖な気候、田んぼも畑も作れる、

ある意味「天国に思えたのでは?

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ロープウェイで登り、下田港の湾の奥を望む

3.下田の歴史を考える

(1)下田の街は幕末の頃がピークで、その後横浜に負けて、さび

れたのだろうな、と勝手に想像しました。

現在の下田の人口は3万人に満たないし、観光依存度が非常に高い

ですね。

(2)下記サイトを見つけました

紹介します。(一部を割愛のため、話は、少し流れが悪いです。)

あとで私の感想を書きます。

  日米修好通商条約で横浜・長崎を開港~外国人と仲良くしすぎた下田は閉港へ - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

 安政六年(1859年)6月2日は、日米修好通商条約により横

浜・長崎が開港した日です。 

こののち、長崎、函館、新潟が開港します。

ついでに、上記の五港に先駆けて開港されていた、下田

のお話もしておきましょうか。

実は下田は、他の港が開かれた後、閉港されています。

 というのも、下田の人々が好奇心旺盛すぎて、やってきた

アメリカ人たちと身振り手振りで話して仲良くなってしま

ったため、役人が困ってしまったのです。

まだまだ攘夷派がどこにいるかもしれない状態で、何かあ

ってはそれこそ国際問題。

また、幕府が許していないのに勝手に商売を始められても

大問題です。

そんなわけで、下田は正式な開国が決まるまでの暫定的な

交渉場所という扱いでした。

そのため、他の場所が開港されて半年後、入れ替わりに

閉じられたのです。

 今はいずれも観光地となっていますが、もし開港されたの

が別の場所だったら、これらの町も違った道を歩んでいた

のでしょうね。

その後の諸々を考えると、開港は国が開かれただけでな

く、この五つの都市の歴史が変わった出来事だったのかも

しれません。

 (3) 私の勝手想像で、誤認与えては失礼なので

昭和の下田について、wikipediaから引くと

下田市 - Wikipedia

1928年(昭和3年)、十一谷義三郎『唐人お吉』や川端康成

伊豆の踊子』の小説発表などが下田観光の火付け役とな

り、1933年(昭和8年)の東京湾汽船(現・東海汽船)の客

船就航、伊豆循環道路東海岸線伊東-下田線の完成により、

観光客が多数訪れるようになった。

さらに、1961年(昭和36年)12月の伊豆急行線(伊東-下

田間)開通により、観光客が急増。

観光業が産業の中心となり、1967年(昭和42年)には、

観光客が500万人を超えた。

 その後も、地震や水害などの起きた時期を除いて、毎年、

多くの観光客を迎え入れていたが、バブル経済崩壊後は

減少に転じ、平成16年度は、観光客が約332万人と低迷。

また、下田船渠解散、企業の営業所・寮の統廃合や流通業

の変化による消費の分散傾向が、下田を初めとする賀茂郡

の中心であった市内経済に打撃を与え、海水浴やイベント

中心型観光都市からの脱皮を模索している。

 4.私の感想

私の素養で、「下田の街は幕末の頃がピークで、その後、横浜に

負けて、さびれた」というのは、失礼な発言かもしれません。

しかし歴史をひもとくと、ちょっとしたことから一つの港、一つの

地方、一つの国の興亡が起こったことが、よくあります。

 天候に恵まれ、旅館の夕食、朝食もおいしく、そぞろ歩きした街並み

も何となくお気に入り。

それゆえ、「下田という町の歴史」にちょっと残念が気がしたもの

です。