1.先日、伊豆の下田
に行ってきました。
プライベートです。
下田は、キンメダイの水揚げ量日本一だそうです。
街をあげてのキンメダイのPR、下記伊豆下田観光協会も力を入れて
います。
食しませんでしたが「キンメダイコロッケ」も、よく見かけました。
伊豆下田観光ガイド-伊豆下田観光協会公式サイト- | 伊豆下田
掲載写真は、昼に私が食べた、キンメダイのどんぶりです。
飲んべいで、魚も好きな私はキンメダイの煮つけは各所でよく
酒の肴に注文しますが、「どんぶり」はあまり記憶にありません。
2.下田港
ロープウェイで山に登り、ペリー船団が来た湾を上から眺めて
なるほどと思ったり、市内をゆっくり歩いたりしました。
天気もよかったし、それほど強風でももなかったので、観光散策
には助かりました。
下田港の山の上からの眺めは、「なるほど」と納得。
つまり、ずっと頭をよぎっていたは、江戸時代の西回り航路の船員
しかり、太平洋をはるばる渡ってきたペリー艦隊の船員しかり。
厳しい外洋を長らく航海して「生きた心地しない」ような嵐の体験
が幾多では?
そして、天然の良港下田に逃げこむことができて「助かった」とまず
安堵したのではないかと、思います。
下記掲載の湾の奥にペリー艦隊の7隻も、停泊したそうです。
無論素人と考えですが、風を遮る山の壁がいく通りもあり、きれい
で豊かな淡水の水がある、温暖な気候、田んぼも畑も作れる、
ある意味「天国に思えたのでは?
3.下田の歴史を考える
(1)下田の街は幕末の頃がピークで、その後横浜に負けて、さび
れたのだろうな、と勝手に想像しました。
現在の下田の人口は3万人に満たないし、観光依存度が非常に高い
ですね。
(2)下記サイトを見つけました
紹介します。(一部を割愛のため、話は、少し流れが悪いです。)
あとで私の感想を書きます。
日米修好通商条約で横浜・長崎を開港~外国人と仲良くしすぎた下田は閉港へ - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
浜・長崎が開港した日です。
こののち、長崎、函館、新潟が開港します。
ついでに、上記の五港に先駆けて開港されていた、下田
のお話もしておきましょうか。
実は下田は、他の港が開かれた後、閉港されています。
というのも、下田の人々が好奇心旺盛すぎて、やってきた
アメリカ人たちと身振り手振りで話して仲良くなってしま
ったため、役人が困ってしまったのです。
まだまだ攘夷派がどこにいるかもしれない状態で、何かあ
ってはそれこそ国際問題。
また、幕府が許していないのに勝手に商売を始められても
大問題です。
そんなわけで、下田は正式な開国が決まるまでの暫定的な
交渉場所という扱いでした。
そのため、他の場所が開港されて半年後、入れ替わりに
閉じられたのです。
今はいずれも観光地となっていますが、もし開港されたの
が別の場所だったら、これらの町も違った道を歩んでいた
のでしょうね。
その後の諸々を考えると、開港は国が開かれただけでな
く、この五つの都市の歴史が変わった出来事だったのかも
しれません。
(3) 私の勝手想像で、誤認与えては失礼なので
昭和の下田について、wikipediaから引くと
『伊豆の踊子』の小説発表などが下田観光の火付け役とな
船就航、伊豆循環道路東海岸線伊東-下田線の完成により、
観光客が多数訪れるようになった。
さらに、1961年(昭和36年)12月の伊豆急行線(伊東-下
田間)開通により、観光客が急増。
観光業が産業の中心となり、1967年(昭和42年)には、
観光客が500万人を超えた。
その後も、地震や水害などの起きた時期を除いて、毎年、
多くの観光客を迎え入れていたが、バブル経済崩壊後は
減少に転じ、平成16年度は、観光客が約332万人と低迷。
また、下田船渠解散、企業の営業所・寮の統廃合や流通業
の変化による消費の分散傾向が、下田を初めとする賀茂郡
の中心であった市内経済に打撃を与え、海水浴やイベント
中心型観光都市からの脱皮を模索している。
4.私の感想
私の素養で、「下田の街は幕末の頃がピークで、その後、横浜に
負けて、さびれた」というのは、失礼な発言かもしれません。
しかし歴史をひもとくと、ちょっとしたことから一つの港、一つの
地方、一つの国の興亡が起こったことが、よくあります。
天候に恵まれ、旅館の夕食、朝食もおいしく、そぞろ歩きした街並み
も何となくお気に入り。
それゆえ、「下田という町の歴史」にちょっと残念が気がしたもの
です。