1.多忙は有用
(1)忙しいことが、売り上げの増加とか、自分の経済的利益に直結
する場合心を滅ぼされるどころか、忙しいこと自体が、心の充実感に
もなり得ます。小売店主であり、企業業オーナーは、その典型。
一方、経済的利益に直結しなくても、働くことに義務感を超えた
満足感、を感じることもあります。
多くの給与所得者、職人、生産者と呼ばれる方々が、この分類、
(2)確かに、労働を悪いこと、神からの罰だ、もしくは労働は奴隷
の属性であり、働かないことこそが素晴らしい、人間の本性だ、とい
う考え方も、あるでしょう。
しかし、私の場合、心情的に「罰」とは思えなくて、なんか「周りの
役に立っている」という(勝手な)自己満足感の方が、ある気がし
ます。「遊んでいる」と「働いている」の境界について、深く考える
と線引きは確かに難しい。しかし「働いている」と「うしろめたさ」
を感じなくてよい、という人は、多いのかもしれません。
つまり、「遊んでいる」より「働いている」ほうが精神的にしっく
りくる場合は多いのでしょう。
もう15年以上前になるかもしれませんが、サントリー・ウイスキーの
CMで、「働いているお父さんが好きですが、遊んでいるお父さん
が好きですか」というコピーがありました。
「うまいな」と思いました。少なくとも「日本人」の琴線に触れるCMかと思いました。
も一つ事例。 障碍者の方が、「援助」で生きているのでなく、仕事
があり働くことで、報酬を得る、つまり「社会に認められている」こ
とが、精神的にとても有用、と聞いたことがあります。なるほどと共感です。
2.忙しいと「退屈しない」こと
(1)私見を言うと、
忙しく働けること、しかも「奴隷労働」でなくある程度の自己の裁
量で働けることは、「退屈しない」という大きな利点があります。
一定の時間を「やることがない」と、すぐ人は退屈しそうになるし、
この退屈が、とても逃げて、ついつい「遊んで」しまいますが、遊ん
でいるだけでは、生活できないし、周りから「認知」してもらえない
ので、退屈しないために「忙しそうに働く」ことになります。
以下は、何度か書いていますが、AIが、もっと発達して「あなたに
できる仕事は、もうありません」と宣言されると自己の存在意義を
否定されたようで、自分が嫌になり、落ち込んでしまう人は多いで
しょう(決して全員とは言いませんよ)
(2)もっと鋭い分析を、先般読んだ「暇と退屈の倫理学」から
少し紹介してみます。
「どう退屈から逃れるか」が焦点となります。
〇ハイデッカーは、
退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を
発揮せよ、と言っているのである。
退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ。
これがハイデッカーの退屈論の結論。
( 國分巧一郎 暇と退屈の倫理学(P253))
〇なお、同書の結論を要約すると
➀本書を通読することで暇や退屈についての新しい見方を
獲得したので、もう「こうしなければ、ああしなければ
と、思い煩う必要はない」
②贅沢を取り戻すこと。浪費することが、豊かさの条件。
現在は消費社会であり、消費は物ものではなく観念対象
とするから、いつまでも終わらず、満足も得られない。
満足するには、物を受け取れるようになるしかない。
物を受け取るとは、その物を楽しむこと。
③「動物になること」
人が退屈を逃れるのは、人間らしい生活から外れたときで
ある。
その状態は「動物になること」、と称することができる。
(3)人間は、にやることがあるから、ある意味幸せであり、多くの
人が 「長生き」していく時代になると「生きていることの恐怖心と
退屈感」を、感じる人が、また増えていくように思いまsす。
3.も一つ漢字の話
(1)昔の思い出話
証券会社の営業をやっていた時、ある先輩からの話
お客さん保有の鉄鋼株を売って乗り換えで、他の銘柄を買ってもらい
たいときのセールストークは、以下の通り。
「鉄は、金(カネ)を失うと、書きますので・・・・」
(2)企業イメージ
カネを失ると揶揄されてはいや、縁起が悪い、と企業は々な努力をしています。
つまり企業名に「鉄」が使われているとき
①「鉄」の代わりに「金ヘンに矢」をつかう
③「鉄」ではなく旧字体の「鐵」をつかう、
といった工夫があるそうです。