ワカタケル
著者 池澤夏樹/著
1.概要
形のないものが形あるものに変わった、実在した天皇とされる21代雄
略の御代を背景にした作品です。当時の歴史の素養がある人なら、背
景は良く分かります。
「日本人の心性はこの頃始まった-。言葉の魂を揺さぶり、古代から繫
がる「日本語」という文体の根幹に接近する」というのが、一般的な
解説です。
多用される「詩・漢詩・うた・歌」のなかに、現代文では表現できな
い「言葉の力」があるのでしょうが、正直、私には、理解はいまいち
でした。
『日本経済新聞』連載されていた時は、日々連載の小文ながら、読み
ごたえがあり、面白かったです。
2.本文からの引用
いわいる論説的な文書でなく、小説ですので、引用はどうかと思うの
ですが、気に入った文言をピックアップしました。
題材・ヒントは歴史ですが、あくまで「著者の想い」をつづるエンタ
ーテイメントであり「小説」です。
あるいはイトは我のよき運の妨げとなる者であり、だからモノはイト
を遠ざけてくれたのかもしれない。
先の開けた若き王子である我に味方するものであったのかもしれな
い。万事をそのように受け取ること。
敵として来る者もわが宿望の糧とみなすこと。
なにものにも脅えないこと。 P12
「そこに墨黒々と『義』と書いてあった。」
「おわかりになりましたか?」
「そういう言葉があるのは知っていた。李先生がしばしば口にされ
る。いや文字に書かれる。他にも仁とか徳とか、分からぬことばがあ
る。」
「人は思うままにふるまうだけではすまぬということでございましょ
う。」
「思うままにふるまって何が悪い?」
「人の想いを導く天の道があるということ」 P64
「何度か申しましたが、短慮でかっとなって目の前のものを切るのは
おやめください」「しかし障害となる者を熟慮の末に除くのはこれか
らもあること。むしろこの先はずっとその連続でしょう。」
「格は容れ物です。初めは空っぽでもともかく大きく構えることが肝
要。その座にあって働けば、月日を重ねれば、中は満たされてゆきま
す。」 P136
すべて男はそういうものなのか。英傑の傍らにはいつも霊力のある女
がいるものなのか。 P162
聞いて、その場に置かれた己の身を思った。海辺に立つ。潮と波が行
く先を遮る。舟の舳先を沖に向け、勇を鼓して漕ぎだす。帆をあげ
る。 ゆるぎない地面を踏んでいた足を揺れ動く舟に預ける。運に身
を任せながら己の力を信じる。 P192
双方の呪文の声がだんだん高くなり、やがては共に叫ぶような大声に
なった。ワカクサカの声に突き飛ばされるかのように、相手の老女は
櫓から転がり落ちた。
我が勢いからどっと歓声が上がる。
見事な力だと我は思った。
その一方でワカクサカは恐ろしいとも思った。 P252
ここに見るように大王はよく歌を詠みました。
その歌は民の間にも広まり、しばしばうたわれてとかく権高に傾きが
ちな大王の評判を和らげることにもなったのです。
一國の王であるとは、こういうことなのでしょう。 P296
「口に発して耳に届く言葉は魂だ」と李先生は言った。「魂は人を離
れてどこまでも行く。動くことで力になる。すなわち言霊。それに対
して、紙に書かれ、鉄の剣に刻まれた文字はその場を動かない。何百
年も何千年も後まで残る。これもまた言葉の力。」 P300
「男のみなさまは武具の類を付けることで強くなられる。そう思って
いらっしゃる。」
「女は?」
「脱ぐほどに力を得ます。いえ、夜の床のことではなく、神の前で、
邪念を脱ぎ捨てることが、大事なのです。」 P322
「大王は強くなくててはいけない。力を失った王は國を衰退に引き込
みます。若者が剣をもって王に挑戦し、勝ったら王になるという國も
あると聞いています。そんなやり方では一國の経営は不安定になるば
かりですが、それでも力を失った王はそのままにしておけません。
P368
3.ちょっとした感想
歴史素材の小説の魅力とは何だろうと、改めて考えます。
いわいる日進月歩の歴史研究の成果である「史実」と違うことは認識
しています。それでも「歴史小説」は溢れています。
「人間はいつの時代も変わらない」から、興味を引く歴史上の一定の
事象が、現在人である読み手の心を揺さぶるからでしょう。
その素地は、まさに歴史のなかにありそうです。
上記引用文を読み返してみれも、私のお気に入りだった文章というこ
ともありますが、特定時代の極めて特殊な環境でしか共感を得られな
話どころか、「今でもよくある普通の話」の感じがするのです。
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