1. 二度目の出会い
「読んでない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール)
という、いかにも「そそりそう」な本が昔あって、本屋で実際手に取
って(持ち論日本語訳です)パラパラめくってたことがあります。
少し読んでは見ましたが、私の理解力の点で、及ばなかったのでしょ
う。署名以外は、記憶に残っていません。
今回、「メディア論の名著30(佐藤卓己著・ちくま新書)」を読み
ました。オオトリ、30冊の紹介で、同書を発見。
「読書案内」ながら、私にとって「二度目の出会い」となり、解説付
きで、今回は理解できました。原文にあたらず、「紹介の紹介」とな
りますが、少し見てみます。
2.読書について(本文から抜粋)
(1)①バイヤールは読書の厳格主義を三つの規範から定義
「神聖な読書」「通読」「正確な再現」の義務
②この規範は読書への自己欺瞞を生み出すために有害 P328
(2)著者の先生の言葉から
「わからないことがあるのは当然だけど、そこで詰まる必要はない。
しょせん、論文で使えるのは、自分がよく解っていることだけなのだ
から」 P329
(3)厳格主義の規範からすれば「読んでいない本について堂々と
語る」講義を私は実践していた訳である。(中略)
読書とは本質的に不完全な情報行動である。流し読みはもちろん、目
次を、いやタイトルを眺めるだけでも「読んだ」と言えるのではないか P330
(4)実際、私たちが書物を話題にする場合、すべて読了したうえで
論じているのだろうか。(中略)
自分の考えを語るきっかけとして、あるいはそれを補強する素材とし
て書物を引用することが多い。そのために流し読みが実践され、書評
など他人の言説も活用される。バイヤールは、それを話者が自己を投
影する「スクリーンとしての書物」と呼ぶ。 P331
(5)こうした書物への自己投影を繰り返すことで個々人は「内なる
図書館」をそれぞれ持つようになる。この「内なる図書館」をアイ
デンティティの中核とする人間こそ読書人であり、その集合的イメー
ジ「共有図書館」が教養の主観的実体なのである。 P332
(6)こうした公共圏において重要なのは、書物、すなわち「他人の
言葉」を通じて自分自身について語ること、つまり自らの「内なる書
物」を著すことへの試みである。まだ読んでいない本とは現前する
「他者」であり、それについて語ろうとする試みは自己発見の可能性
を秘めた対話的コミュニケーションなのである。
(7)重要なのは、読書そのものではなく自分自身について記述する
ことである。p334
(8)読んでいない本についての言説は、自分自身について語るこ
と、すなわち読者が自ら創作者(著者)になるプロセスに開かれてい
る。(中略)
この「メディア論の名著30」を私が書いている目的も、まず、「読者
が自ら創作者(著者)になるプロセス」を自らの体験として開示する
ためであり、それは読者との対話を成立させるためなのである。
P335
3.電子書籍についての考察
①蔵書としての読書履歴が蓄積される紙の書物は例外的なストック・
メディアである。
②紙の本で読者は「他者」の全体性を自然に体感することができた。
しかし電子ブックで読者が対面するのはいつも同じモニターに映るま
とまりを欠いた文字データ、その断片的なデータからリアルな「他
者」を再構成する作業は難しい。
③電子ブックの読者では「他者」との対話を必要としない自己中心的
な世界に逃避しようとする誘惑も強い。
④デジタル空間では「共有図書館」、すなわち教養のイメージがます
ます貧困化していく可能性も否定できない。創造的な教養人の公共圏
を守るためにも、紙の本の保護政策はやはり必要なのだろう。
4.今回の感想
原典でなく佐藤さんによる「読書案内」ですが、やはり私には難しい
点も多々。
ただし、読書に対する姿勢としては、いいとこどりで、自分の姿勢を
再認識。つまり、解る部分しか解らないし、自分なりに考えるきっか
けを作ってくれるのが書物である、読書という行為だということ。
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