当たり前の話を書きます。
タイトル通りです。それぞれ見方がみな違います。
話の前提を昔撮影した、子供の写真やビデオがあり、その子供は
もう成人している。
子供は孝行娘で、親につきあって、父母と一緒にビデオや写真を
見て談笑している。
話の主人公はこの娘父親、とします。
1.主人公(父親)
まず、主人公(父親の方)はビデオを見て感傷に浸っている。
頭の中は完全に過去に飛んでいます。
一枚の写真、ある瞬間のビデオから、当時の世界が一気に湧きあ
がってきます。
苦しかったこと、嬉しかったこと、当時考えていたことetc・・・と。
往々にして人間は、生物としての自己防衛能力から、割と嬉しい
ことは覚えていて、決定的に苦しいこと、悲しいことは覚えていて
も、ある程度マイナス感情が緩和されていることもあるとのこと。
一歩進んで、脳の自己防衛機能で、記憶自体を作り替えることも
あるようです。
よって、自分の子供の写真を見て主人公には、トラウマはないと
仮定します。
主人公の頭の中で、自由な発想が飛び回ります。
写真の中の娘は、まがうことなく面前にいる娘と、同一人物ですが、
そんなことはどうでもよくて、意識の上では別人物「昔は○○だっ
た・・・」という感情になります。
2.妻(配偶者)
ここで妻登場。
当該写真、ビデオの時もその前後もずっと婚姻したまま、単身赴
任等別居はあったにしても、基本的に夫と共同生活をしている、
夫婦仲は考慮せず、と仮定します。
主人公に取り、配偶者(ここでは妻を前提)は、いわる苦楽をともに
した、同じ釜の飯を食った「戦友」であり、当時のことを話しても、
すぐ反応があります。
事象についての細部の食い違いや、見解の相違は、ここではご愛敬
とします。
脱線しますが、昔ある先輩は、自宅が火事の時にを持ち出すか、
それは「俺なら宝物だ」とのたまわく、、、。
その宝物とは「子供のアルバムだ」と聞きました。
当時ですから、ビデオはなかったと思います。
焼きましした(表現が古い?)幾多の写真をちゃんと張り付け、
自分や妻がコメントを書いていた、立派なアルバムがあったの
でしょう。
前回このはてなブログのお題に、「子供の成長」が、ありましたが、
子供の成長が,自分の宝の一つ、という方は、少なくないでしょう。
3.子供の反応
さて次は、つきあってくれた孝行娘の視点。
息子と仮置きすると、自分の写真を見て親と談笑、にやや違和感が
あり、娘としました。
娘に取り、まさに「お付き合い」ですよね。
考えてみれば、自分の子供頃の写真やビデオ、ましてや物心ついて
無い頃については、解らないし、コメントしようがない。
幼い自分をみて、恥ずかしさはあっても、うれしいとか、ナルシズム
を感じることはほとんどないのでは。
感傷に浸ったり、勝手に会話が盛り上がる、父母を見て「まあ、
いいか」といったところ。
4.昔から続く話
時間を戻すと、子供の写真を見て嬉しいのは、親の特権「ずっと続く
個人的体験」であることが良く解ります。
今日のブログの主人公父親が子供のだった頃の写真を前提としま
しょう。
遡って私の先輩の時代、戦後復興おころか、「もう戦後ではない」
も過ぎて、高度経済成長の萌芽も感じる1950年代後半としましょう
か。
一般家庭にも、カメラが出回ってきます。
子供はいるけど経済的理由で「子供の写真が全くない」ことはない
と仮定します。
現在の感覚ですと、古びた画質も悪いシロクロ写真でしょうが、
この母親にとっては「子供の写真は宝物」なのでしょうね。
上に書いたことと同様のことが、起こります。
一枚の写真から往時の様子、苦しかったこと、悩んでいたこと、
楽しかったこと等が彼女の脳裏に、一瞬にしてよみがえります。
深い深い個人的体験、感情を共有できるとすれば、苦楽を共にした
配偶者くらいでしょうが。
勿論、子供(ここでいう主人公である娘の父親)に、解るはずは
ありません。
ということで、子供にも他人にも解りえない「個人的な体験」とし
て、同じ境遇とならないと、決して受け継がれていくことはない
感情です。
将来は誰にも解りませんが、この娘さんが母親になったとしたら
同じ感情を持つようになるでしょう。
5.老婆心ながら・・・
最後に一言
あくまで、子供の写真は、自分や配偶者のお楽しみであって、他人
は貴方への好感や類似境遇があれば、共感してくれるとしても、
感情は皆同じではありません。
よかれし、と思った行動で、周りを意図せざる不快感に巻き込むのは
やめましょう
もうすぐ、年賀状の季節ですが、親しい友人で会っても、子供の写真
は関心がない、気に入らない、いやだ、という人も多いですよね。
皆さんそれぞれ個人的事情がありますから、注意しましょう。