暇と退屈の倫理学(増補新版)
國分功一郎/著
1. 概 要
例えば、「ウサギ狩りに行く人」は本当は何が欲しいのか?
デッカー等々様々な哲学者の論を分かりやすく解説し、その
問題点を指摘し、スクラップ&ビルドして自分の論を作り上
げていく過程が見られます。
哲学に疎い私にとって、スクラップ&ビルドで展開される
論旨を追っていくのは、自分の頭が試されていて、正直
大変疲れますが、醍醐味と言おうか、大変面白い面が
ありました。
ほかの書評にあるような「解りやすい」というレベルまで
には、残念ながら、私はそこまで至りませんでした。
生意気言わせてもらうと、高度な「思考訓練」を受講した
感じです。
各所各所の結論は 3.ピックアップで取り上げます。
2.目次
序章 「好きなこと」とは何か?
第1章 暇と退屈の原理論
ウサギ仮に行く人は本当は何が欲しいのか?
第2章 暇と退屈の系譜学
人間は、いつから退屈しているのか?
第3章 暇と退屈の経済史
なぜ”ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第4章 暇と退屈の疎外論
贅沢とは何か?
第5章 暇と退屈の哲学
そもそも退屈とは何か?
第6章 暇と退屈の人間学
トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第7章 暇と退屈の倫理学
決断することは人間の証か?
結論
3. ピックアップ
なぜ暇は搾取されるのか?
それは人が退屈するのを嫌うからである。
人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。
(P24)
何かに打ち込みたい。
自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に
身を投じ たい。
なのに、そんな使命はどこに見当たらない。
だから、大義のためなら、 命をささげることすら惜しまない
者たちがうらやましい。
(みじめな運命に対する)パスカルの解決策は、神への信仰
(P 44)
(気晴らしが熱中できるものであるために)退屈する人間は
苦しみや負荷をもとめる。 (P45)
彼らにとっては極度の負荷のかかった状態を生きること、 苦し
さを耐えて生き延びること、それこそが生なのだった。(P 51)
退屈の反対は快楽ではなく、興奮である (ラッセル)(P57)
(スヴェンセンの見解)
ロマン主義者は、 生の意味は個人が自らの手で獲得すべきだと
考える。
とはいえ、 そんなものが簡単に獲得できるはずはない。
それ故、ロマン主義者たる私たち現代人は退屈に苦しむ。
ロマン主義を捨て去ることが、退屈から逃れる唯一の方法(P68)
定住がはじまって以来の1万年くらいの間に、それまでの数百
万年とは比べ物にならないほどの大きな出来事が数えきれ
ないくらい起こっている。(P85)
定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるように
なった。(P91)
退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する
重要な条件であるとともにそれはまた、その後の人類史の
異質な展開をもたらす原動力として働いてきたの である。
(P93)
レジャー産業は人々の要求や欲望に答えるのではない。
(一般に疎外とは、人間が本来の姿を喪失した非人間的
状態を指すが、)
消費社会における疎外された人間は、 自分で自分のことを
疎外している消費者は、 自分自分たちを追い詰めるサイクル
を必死で回し続けている。(P170)
ホッブスの考えで面白いのは、平等を無秩序の根拠と考えて
いるところ (P178)
ルソーによれば、ホッブスの言う「自然状態」 は自然状態では
ない。
それはすでに社会が存在した後の状態、 要するに社会状態を
描いているに過ぎない (P180)
(ルソーによれば)自然状態においては、 人間をどこかに縛り
付ける絆など存在しない。 (P181)
ボードリヤールは消費と浪費を区別することで、消費社会が
もたらした「現代の疎外」について考えた。(P203)
退屈を2つに分ける(ハイデッカー)
➀何かによって退屈させられること
②何かに際して退屈すること
(何かに立ちあっているときに、よく解らないのだが
そこで自分が退屈してしまう)(P214)
第二形式(上記の②)
パーティに際して退屈していたにもかかわらず、気晴らしが
見出せなかったのはその「際して」いた対象そのものが気晴
らしだったからである。(P232)
ハイデッカーは、
退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を
発揮せよ、と言っているのである。
退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ。
これがハイデッカーの退屈論の結論。 (P253)
時間とは何か ユクスキュル
時間とは瞬間の連なりである。(P274)
人間にとっては、18分の1秒の連なりである (P276)
(ハイデッカーの主張)
人間だけが退屈する。なぜなら人間は自由であるから。
動物は退屈しない、何故なら動物は、<とらわれ> の状態
にあって、自由ではないから。(P291)
(再度ハイデッカーを要約すると)
退屈している人に対して
「グダグダしていないで、心を決めて、しゃきっとしなさい!」
(1)人間は退屈し、人間だけが退屈する。 それは自由である
のが人間だけだからだ。
(2) 人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することが
できる。 (P 306 )
単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、事実を見逃している。
それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きてい
るという事実 だ。 (P339)
(ドゥールーズ)
人間は仕方なく、強制されて、むしろ何かのショックを受けて
考える。 (P339)
世界には思考を強いる物や出来事があふれている。
受け取ることができるようになる。
<人間であること> を楽しむことで、<動物になること> を待ち構
えることができるようになる。
これが本書「暇と退屈の倫理学」の結論だ。(P367)
4. 3つの結論の要約
➀本書を通読することで暇や退屈についての新しい見方を獲得
したので、もう「こうしなければ、ああしなければと、思い煩う
必要はない」
自分なりの理解の仕方を見つけていかねばならない。
②贅沢を取り戻すこと。浪費することが、豊かさの条件。
現在は消費社会であり、消費は物ものではなく観念対象と
するから、いつまでも終わらず、満足も得られない。
満足を求めて消費すればするほど満足は遠のき、結果として
退屈が現れる。
ならば、物を受け取れるようになるしかない。
物を受け取るとは、その物を楽しむこと。
③「動物になること」
人が退屈を逃れるのは、人間らしい生活から外れたときである。
動物が一つの感世界に浸っている高い能力を持ち、何らかの
対象にとりさらわれていることがしばしばであるなら、その
状態は「動物になること」、と称することができる。
5.最後に私見
著者は、次なる課題として、
どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるか?
(P369)を上げています。
歴史上、「暇と退屈」を持った人間の割合が増えてきたことは、
私は、喜ばしい、と思います。
「仕事をしたいのに、やるべき仕事がなくて暇である」
社会が、やってきそうな気がしています。
その際に、人間が絶望に打ちひしがれているのでなく、
人間としての尊厳を持ち、将来に希望が持てる社会で
あってほしいと思っています。
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