ハドリアヌス帝の回想
原タイトル:Mémoires d'Hadrien
マルグリット・ユルスナール/[著]
多田智満子/訳
出版者 白水社 2008.12
1.概要
あまねく世界を支配した古代ローマの、五賢帝の一人と称えられるハ
ドリアヌス帝が、死に臨んで自らの生涯を回想します。
これは筆者ユスナールが、皇帝の内面に入り込んで、彼に一人称で語
らせた想像的自伝なのですが、どこまでが歴史上のハドリアヌスで、
どこからが小説の主人公なのかが分からないのです。
理想家でリアリストでロマンチストで激情家で俗人である皇帝の多面
的な魅力が、良く解ります。
「リズミカルで、ひたすら美しい文章が魂を揺さぶる」とはかの三島
由紀夫や、出口治明さん他、多数の方が述べていますが、残念ながら
私は、文章の美しさを鑑賞するレべルでは、ありませんでした。
2.ピックアップ
自分の生をつくづくと省みるとき、わたしはそれが曖昧な形を
している目標に向かって飛んでいく。
そして大部分の人間は自分の生涯を一つの公式にまとめるのが
好きである。
ある者は自慢にし、ある者はめそめそ繰りごとをならべ、ほと
んど例外なしに他人を非難しながら自分の一生を語る。 (P31)
人間の精神は、自分が盲目的な運命の手中にあること、そし
て自分がいかなる神もみそなわさぬ、また特に自分自身がまっ
たくあずかり知らぬ偶然の気まぐれな産物に過ぎないことを、
認めらたがらぬものである。 (P34)
わたしが大多数の人間よりすぐれていると感じる点はただ
一つしかない。
それはわたしが、彼らがあえてそうあろうとする以上に自由
で、同時に従順である点である。 (P51)
しだいしだいに、あらゆる神々はひとつの<全体>のうちに神秘的な
融合を遂げ、同じ一つの力の無限い多様な発掘、いずれも等しい現わ
れであり、神々の間の矛盾は調和の一形態にすぎない、と思われてき
た。 (P181)
すでにずっと以前から、わたしは神の本性について哲学者の不細工な
解釈よりは、神々の恋愛やいさかいに関する神話のほうを好んでい
た。 (P183)
イタリアの行政は、幾世紀ものあいだ、地方長官の意のままにされて
いて、いまだかつてはっきりと法文化されたことがなかった。
その行政を決定的に律する<永久の法令>」は、わたしの生涯のこの
時期に実施されたはじめたものである。 (P240)
最近一世紀間における風俗の醇化と思想の進歩は、ほんのひとにぎり
のすぐれた精神たちの仕事であって、大衆は依然として無知で、そう
なりうるときには凶暴で、いずれにしても利己的で、視野が狭い。
そして大衆とは将来も常にこの通りなのだと賭けておく方が勝ち目が
ある。 (P258)
(ハドリアヌスの妻のことです)
彼女は子共を産まずに死ぬことで自分を祝福した。
わたしの息子はきっとわたしに似るだろうから、その父に対するのと
同じ嫌悪を子供にもいだくようになっただろう、と。 (P275)
私はすべてを神々にゆだねている。
と言っても、人間のものでない神の正義に前よりも信頼を置いている
からではなく、むしろその逆こそ真実である。
人生は無残なものだ。 それは解っている。
だが、人間の条件から大したことを期待していないからこそ、まさにその
ゆえにこそなおさら、幸福な時代、部分的進歩、再開と継続に努力
が、もろもろの悪や失敗や怠慢や過誤の膨大な集積をほとんど償うに
足るほどのすばらしい驚異と思われるのだ。 (P309)
3.最後に
「美しい文章」については「1.概要」に書いたように、いまいち鑑賞
できませんでした。
なお、当該書籍を出口治明さんが高く高く評価しており、実はそれで
読んでみたですが、私が「回想」の前提となるハドリニアヌスの業績
や、行動履歴を完全に把握しているわけでないため、出口さんのよう
には、いきませんでした。
とはいえ、上記引用や引用しなかった部分含め「ハドリニアヌスな
ら、そう考えたんだろうな」と感じ入るところが多々ありました。
今回も非常に骨太な書物に、がっつり取り組んだ、非常に疲れる読後
感でした。
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