中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

子供の写真は、『特定の人、親(ないし実質的に育てた人)』にだけ意味を持つ話。

1.一枚の子供の写真

ある事象が、特定の人にだけ意味があり、ほとんどに人には無意味

ということはあります。

タイトルにあげたような、自分の子供の写真がその典型でしょう。

 宗教の話はしません。宗教が生活の一部どころか、宗教が支配する

人生観に基づいて、生きる子こそ、本来雄型と、思う人は、世界で

現在でも多数いるでしょう。多くの日本人は、明治時代に出てきて

ダーウィンの進化論頭ごなしに否定する人は少ないでしょうし、

「世界は神が、一人で作った」と思う人のほうが少数派でしょう。

kの部分には、今日は触れません。

一枚の子供の写真を眺めているうち、数年前、数十年前の、リアルな

記憶がよみがえってくる、という話です

 

2.親として生きてきた証

(1) 子供が生まれたばかりの時期から、子育て真っ最中の方には、

なかなか解らない世界ですが、月日がたち、「親離れ」「「子離れ」

する時期になると、子供との過去の関係が何となく、見えてきます。

 (2)さて、ここで、前提を少し整理しておきます。。

ここで、「子供の写真」とは、プリントアウトした、紙製のカラー写

真です。デジタル情報ではありません。 また動画のビデオではあり

ません。

今の若い世代には、動画や静止画問わずPCやスマホの中で、自分の子

供が踊っているかもしれませんが私の子育て時代は、上記のような、

プリントした紙です。

(3)さて、子供が社会人といわれる年齢になり、彼が幼少だったこ

ろの写真を見ると、「親ばか」で「昔はかわいかった」と思います。

ココまでは、一般的な話です。

 

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「子供の写真」イラストとですが、男子幼稚園児にしました。

(4)年よりじみた結論になりますが

写真をじっと眺めていると、当時の生活環境、苦しかった、楽しかっ

ことが次々湧いてきます。写真の背景にも、妙に感じ入ることになり

ます。

つまり、被写体は子供ですが、その写真は親の「怨念」や「当時の感

情」を閉じ込めたもの、なのです。

昔仕事上にある先輩が、よく言ってていました。

自宅が火事になったとき何を一番に守りたいか。物さんでも現金でも

ありません。

子供の写真が入ったアルバム・・・・・

まさに、現実に不要の中心となった特定にヒトだけに、意味を成すも

のです。例えば子供のとなりに若い頃の自分が写っています。髪は真

っ黒なるほど若い。でも自分に関心がいくのはそこまで。

写真全体から当時の生活環境がが思い出され、記憶が再生産されま

す。つまり、写真を通じて、見えないものを見ています。

おっと、若くて美しい奥さんがが移っていたら、お付きでなく、それ

は素直に称賛しなけれなりませんね。トラブル回避です。

 (5)結局、子供をダシに、過去の自分の生き様を反映、投影してい

るのですね。

写真の本人である、子供にとっては、特に感動を呼ぶものではありま

せん。これは時間をズラスと、よく解ります。

自分を子供に据えて、昔の写真があったとします。

それは、自分の父親、母親にとっての宝であって、大方の人は、自分

自身の子供のころの写真をみて、感慨に浸ることはありません。

(ヒト様々ですから、反論もおありでしょうが・・・)

当たり前です。

その時闘ってきたのは、自分ではないのは、父母もしくは生活を支え

てくれた保護者のはず。

物写真の裏に、まに見えない当時の社会環境、生活環境をみている

のです。

 (6)脱線を少し

生活環境変化はじめ諸般のの事情により、50年前比較して現在の30

代、40代のお母さんは、ずっと生理的に若いですね。

見ず知らずの女性を捕まえて、ある女性が60代前半として、彼女に

「おばあさん」と言ったが大概の女性が立腹するでしょう。

話を戻しますが、50年前の田舎で、私が知る限り特に60代後半といえ

ば、まぎれもまく「おばあさん」でした。

 (7)さて、当時を思い出したと、現実にもどると

 「こんなはずじゃなかった」、という感情が湧いてきます。

 程度の差はあれ、親と言う立場のヒト多く感じることでしょう。

そういった感情が全く沸かない、人生すべて予定通り、という方も

いらっしゃるかもしれませんが・・・

(8) 話を飛躍させますが、

古今東西、各地域にある「子供の祝い事」は

『よく、事故、病気、諸般の災難に負けず、よくぞ生きてここまで成

長した。これは実におめでたい』という子供本人の祝いと同時に、

それを支えた、親や、保護やに対する「ご苦労様」といったねぎらい

に、感じられてならないのです。