中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

皮肉でなく「テレビでは教えてくれない」は名文句と思う。 自尊心をくすぐる

1.「情報化の時代」と言われていますが・・・

(1)「情報化の時代」とは、かれこれ30年以上も、言われている

ように思います。

昔は紙の書いた文字情報だけであり、それがラジオが出てきて、

テレビがでて来て、「文字情報」の方も、いろんな出版物がでて

来て、そしてSNSが出てきて・・・

(2)SNSの隆盛は、「情報発信者」の飛躍的増加を見たのは、

ご案内の通りです。

受け手から方見ると、多くの人が、安価に、制約が少なくなる環境

で、種々雑多な「情報」に、接するようになってきました。

情報が洪水のようにあふれ、「整理しよう」、「自分で考えよう」と

いうまじめな人ほど、混乱をきたしているのが、実情でしょう。

いや、ますます個人の内部で「混乱が加速化」という表現が当たるか

もしれません。

(3)話が、グローバルになり、大きな範囲となり、地域特性を論じ

ていると、「例外事項」も増えるので、まとまらなくなります。

以下、現状の日本に、限定して、私が思うところを話をします。

 

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テレビの新型コロナウイルス報道、イメージ

2.テレビメディアは依然として強そう

 昨今言われるように、まだデータを参照して、解説もあるように

広告業界でテレビの凋落、インターネト広告のますますの進展」

と、いうのは正解でしょう。

しかしながら、テレビは、しぶとく生き残ると思います。

(1)「ながら」労働について

特に、テレビに見入っているわけでも、感情移入しているわけで

もないが、家事はじめ、入り円の「労働」の中で、「ついで」に参照

するものとして、テレビの位置づけは高いでしょう。

もちろん、広義の「運送」にかかる人は、動画、静止画情報参照では

仕事になりませんので、音声情報のみでしょうが、「テレビ参照」

できる労働は多いですよね。」

(2)時間を持て余している人

自主的な対応しなくても、画像と音声が「勝手」に流れるテレビは、

「退屈しのぎ」には、適していると思います。

当方が考えていても、考えていなくても、(当たり前ですが)向こう

の都合で、情報が流れます。

あまり、批判的観点がないと「情報の刷り込み」になりそうです。

例えば、新型コロナ情報で、テレビ情報のみ(番組はいくつもある

ようですが)だち、どうも、一方的な、情報判断に、なりそうです。

少し論点が違いますが、「昭和30年から40年代の子供」については、

共通の話題が、テレビ情報からが多かった気さします。

「読書」や「趣味」は「共通」というレベルには、拡大していなか

ったと思います。

(3)テレビが好きな人

ドラマにしても、ドキュメンタリーにしても、テレビ番組の感移入

して「楽しんでいる」人は、たくさんいそうです。

「多様性がなく、一方的」な考えの押し付け、否めませんが、「楽し

んでいるから、それでいだろう」には、反論しません。

(4)間を持たせるテレビ

やや不思議なのは、せっかく久しぶりに会って、対面で情報交換する

ことがありそうなのに、同じくテレビを見ていて、たまに会話。

おそらく、1対1で詰めた話をする内容はなく、テレビに「間を持た

せて」いるケースもあります。

(5)総じていえること

上の類型が網羅しているとは言わないし、反論も多いでしょう。

総じて私が思うのは、「テレビ情報を信頼している人」が多そうで

す。SNS情報は、どれを選択していいか、よく分からないし、「大

手マス・メディア」は、正しく、中立的に報道しそう、と思い込む人

は、多数いそうです。

確かに「本を読め」、「いろんな意見を比較検討して」と言われて

も、確かに「正論」ではあるが、メンドウだし、難しそう

 

 3.「テレビでは教えてくれない」という名文句

上記にように、テレビ情報の、情報量の多さ、利便性を認めたうえで

「私は、ヒトの知らないことを知っている」、「私は別情報がある」

「私は違う視点の分析ができる」と思うことは、自尊心をくすぐるも

です。

しかし、新しい話・高度の話・より正しそうな話は、知りたいが、

情報収取は大変、というか不可能に近い。

そこで「テレビでは教えてくれない」情報を、インターネットや雑誌

等の紙媒体で収集できると、とてもいい。「限定情報」ならなおさら

いい、となります。

インターネットでは「有料サイト」、雑誌であれば「購入」となるで

しょう。少なくとも、行動を起こすことは、ある程度主体的に「考え

ている」ことになると、思います。

 

 4.ふと思うこと

以下は、主文からはなれば蛇足です。

 この実社会は、どこにも「正解」がなく、自分のリスクで「考えて・

調べて・判断して」、行くしかないでしょう。

どれが正解かを示す、全知全能の「神」がいるわけではない。

三権分立なかでは「司法」が、何となく一番中立で、正しそうだが、

やはり人間が作る制度であり、限界はあります。

たとえば、裁判所に「不正」を訴える主張をするとしましょう。

訴える方に「証拠をそろえた挙証責任」があり、裁判に負けるとは、

「その不正はなかった」ということになります。

判事も人間ですから、世の中がどんどん複雑になってくると「理解で

きない・判断がつかない」ことが、増えてくるのは当然と思えます。

「不正を見破る」というと、かっこいいいいですが、判事に「ないも

のねだり」の点もあるでしょう。

暗い結論ですが裁判結果には、「仕方がない」と諦めることになりま

す。