中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

メメント・モリ 死を想え(読書感想文もどき) 藤原新也の古典的写真集  見ればわかる

メメント・モリ 死を想え

藤原新也/著  

出版者    三五館 2008.11

1.概要

(1)25年間の長きにわたって読み継がれてきた、生と死を歌う

現代の聖典メメント・モリ」が刷新されました。

新・写真22点、コピー21点収録です。

写真集ですが、1983年初版発行なので、もう40年弱前「古典」

の領域でしょうが。

今私が見ているのは、2008年11月初版とあり、21世紀

エディションなので、活字の色も変化、写真の追加等があるや

もしれません。

時代は変わっても、「街にも家にもテレビにも新聞にも机の上

にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ。」P5 

という状況は変わ

っていませんね。」

(2)とても若いころ「東京漂流」をよく読んだことはありますが、

もう、数十年です。

ふとしたことから、ほぼ同世代の方の書評を読み、手にしました。

私自身が、年齢的にも環境的にも「死を想う」時期ではあります。

藤原新也」とは

1944年福岡県生まれ。写真家・作家。東京芸術大学油絵科を中退

し、インドを振り出しにアジア各地を旅する。

第3回木村伊兵衛写真賞、第23回毎日芸術賞などを受賞。

(3) なお、wikipaeidaから、少し拝借引用するとと、

古代ローマでは、「メメント・モリ」の趣旨は(今を楽しめ)という

ことで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから

というアドバイスであった

 その後のキリスト教世界で違った意味となる。

つまり、死が意識の前面に出てきて、かなり徳化された意味合い

死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいもので

あることを強調するもの、 のようです。

 

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自分の死のイメージがまだ湧きません

2.本文引用と私のコメント

死体の灰には、階級制度がない。   P27

 

ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。  P33

(michi コメント)

このの文章と写真は、病院で死ぬことの多い日本人からすればあり

えないし、衝撃的な光景です。

病院で最期を迎えるのは、自由であり、自分が望んだ死に方なのでしょうか?

今の日本では選択の余地がなく「仕方ない」ということでしょう。

一方写真の通り、祭りの日に聖地で印を結んで死んでいる奴は不

自由なのか?死んで犬に喰われている奴は可哀想なのか?と思え

ないこともあります。

この人たちは、逆に自由に生き、死んでいったのではないか?

「死」をどう考えるかは、究極の問題でしょうし、答えが出る

とは、思えません。

 

あの人骨を見たとき  病院では死にたくないと思った。

なぜなら、  死は病ではないのだから。       P39

 

太陽があれば国家は不要。  P50

 

極楽とは、苦と苦の間に、一瞬垣間見えるもの。  P114

 

信じることの愚かさ。信じることの賢(えら)さ。  P130

 

 人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ。 P134

 

 3.全体の読後感

文字と写真を眺めるだけなら3分で読み終える事が出来るでしょう。

読み終えた後に感じたのは、異質感です。

米国大統領選報道や、新型コロナ報道の仕方で、「気分が悪い」

日々ですが、これとは違った、異質感を感じた読後感です。

ブッタの言葉を読んだときと、類似の感覚でしょう。

写真のない、巻末近くを記載します。

「いま世界は疲弊し、迷い、ぼろぼろにほころび

滅びに向かいつつある。

そんな中、つかみどころのないけ満な日々を送っている正常

な人よりも、それなりの効力意識に目覚めている阿呆者の方が、

この世の生命存在としては優位にあるように思える。

わたしは後者の阿呆の方を選ぶ。

わたしも阿保を選ぶ。そして、わたしも、あきらめない。

私見は、「世界が滅びつつある」とは思いません。人間がいなく

なっても世界はずっと続くでしょう。

「阿呆者が優位にある」か否かは、判定できませんが、私が考える

ことを「あきらめる」ことはないと思います。