滅亡について 評論集 他三十篇
出版者 岩波書店 1992.6
1.概要
一般的な説明だと、
作家武田泰淳は、一兵士として中国へ行き、敗戦を上海で迎えた。
その時の屈折した心境を日本と中国のちがいに着目してつづった
評論「滅亡について」は、泰淳の出発点であるとともに、戦後文学
がうんだ記念碑的作品である、とあります。
私は、「ひかりごけ」以外は、ほとんど記憶にありませんでした。
彼は、寺で生まれ育った坊さんで「まだ浄土宗から破門されており
ませんから、自分では坊さんのつもり」とのことです。
「途中で小説を書く方へ踏み外しましたが、現在でも我々の日常生活
が、すべて仏教の哲理によって、取り囲まれている」というのが彼の
基本観のようです。
引用は、ほぼ「滅亡について」からですが、「滅亡が語られるとき、
語る者は残っている」というのは、当然と言えば当然ですが、妙に
納得です。
2.本文からの引用
このように、自分の身体を安全な椅子にまかせて、大きな滅亡、鋭い
滅亡のあたえる感覚をゆっくり味わうのは、近代人に与えられた特権
なのかもしれないが、映画館以外の場所でも、この習慣が流行してい
るとすれば、私が「滅亡について」語るのも、あまり偏っていない
のかもしれない。
むしろ私が時代遅れなのだ。私自身の近代化されない、平家物語的な
詠嘆が、このようなテーマにこだわっているままに、滅亡はいくらで
も進行するし、それに熱狂し、打ち興ずる近代人が、平気で生存して
いくのである。 P19
戦争によってある国が消滅するのは、世界という生物の肉体のちょっ
とした消化作用であり、月経現象であり、あくびでさえある。(中
略)私たち人間は個体保存の本能、それが発達して生まれた種族保存
の本能のおかげで、このような不吉な真理を忌み嫌い、またその本能
の日常的なはげしさによって、滅亡の普遍性を忘れはててはいるが、
しかしそれが存在していることは、どうしても否定できない。 P22
滅亡を考えるとは、おそらくは、この種のみじめな舌打ちにすぎぬ
のだろう。
それはひねくれであり、羨望であり、嫉妬である。それは平時の用
意ではなく、異常の心がわりであ 。しかし、そのような嫉妬、その
ような心がわりに、時たまおそわれることなくして一生を終わる人は
きわめてまれなのではないか。 P24
すべての文化、とりわけすべての宗教は、ある存在の滅亡にかかわり
を持っている。滅亡からの救い、あるいはむしろ滅亡されたが故に必
要な救いを求めて発生したものの如くである。滅亡はそれが部分的滅
亡であるかぎり、その個体の一部更新をうながすが、それが全的滅亡
に近づくにつれ、ある種の全く未知なるもの、滅亡なくしては化合さ
れなかった新しい原子価を持った輝ける結晶を生ずる場合がある。
P26
これからの世界は、この部落より遥かに大きな地帯にわたって、目に
もとまらぬ全的滅亡を行い得るだろう。 P27
だが時たま,その滅亡の片鱗にふれると、自分たちとは無縁のもの
であったこの巨大な時間と空間を瞬間的に取り戻すのである。(滅亡
を考えることにはこのような、より大なるもの、より永きもの、より
全体的なるものに思いを致させる作用が含まれている。) P28
大きな慧知の出現するための第一の予言が滅亡であることは、滅亡の
持っている大きなはたらき、大きな契機を示している。 p29
(限界状況における人間)から
おそらく原始キリスト教徒たちにとっては、おごりたかぶり、自分
たちを迫害する地上の権威が、やがてまちがいなく滅亡するという
確信こそ、何よりの勇気の根源となってくれたことだろう。 P64
(諸行無常のはなし)から
我々は苦しみも欲しくない、死ぬことも欲しくないが、しかし苦し
みや死があってくれる事が、果たしてどれほど、絶対的に悪いこと
であるかどうか、私はその時はじめて、生老病死という四つの定理
を利用して、人々を善き方へ導いていったお釈迦様の気持ちが解る。
もし、それを活用しないで、強ばっていって、こういうものが仏教
の定理だといって、ちっともそれを活用しなかったならば、せっか
くのお釈迦様の気持ちを、我々は発展させていくことが出来ません。
P293
3.最近思うこと
「乱読」とまでは、いかないですが、最近「死」や「滅亡」に関する
本を相対的によく読んでいるようです。歴史関係を読むと当然ながら
「人間の死」がヤマほどてくるわけですが、私の解釈が変わってきて
います。
それは私が社会的動物であり、日々過ごすなかで経験値は増え、また
生理的にどんどん変わっていくのですから、当然のことです。
身近な生理的な話を一つ。
この「滅亡について」 は、紙版の岩波文庫で読んでいるのですが、
「字の小ささ」が最近とみに、気になります。
|