中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

読書についてショーペンハウエル見解 同意するが実行は困難  私見は「諦めも肝心」

読書について、先人が昔から語っています。
今日は再度ショーペンハウエルの見解もとに、私の言いたいこと
を書きます。
1.ショーペンハウエルの3つのコメント
(1)取り上げるのは、彼「読書について」から、3点
 ①読書とは、他人にものを考えてもらうこと
 ②読書と思索の上手なバランスにより、人生の達人になる
 ③難しくて理解できない本は、それを書いた著者が悪い
ショーペンハウエルの何たるかは、ほかに譲ります。
上記3つのコメントにさっそく、私の言いわけを付けていきます。
 
 (2)①と③について
①の「他人にものを考えてもらう」
について、 ショーペンハウエルは、単に多読を重ねているだけだと
「しだいに自分でものを考える力を失っていく」、といいます。
厳しい指摘ですね。
正し、「自分で考えている」ことの前段階にある、「相手の言うこ
とを理解した」というレベルは、最低限必要です。
 
 ③の「その本を書いた著者が悪い」について
 確かに出口治明さんも、恩師である国際政治学高坂正堯氏の
言葉として
「古典が解らないのは自分がアホ、新書を読んで解らないのは
著者がアホ」
を、よく引用しています。
厳しい言い方ですが、これが該当するのは、ある程度の基礎力
がついてから。
基礎力をつけていないまま、自分が解らないのは相手が悪い、と言
ってもむなしいばかり。
(補足)
数学や哲学の書籍、現代人学者の古典の解説文に
「やさしく解説」との案内もありますが、私がそれでも解らない。
この場合、冷静に考えて、「私がアホ」が正解でしょう。
基礎的な読解力、土台となる周辺意識をつけておいて、はじめ
て新書の著者を批評できる基準が培われると思います。
しかし、どんなに頑張っても、解らない世界はあります。
その場合、潔くあきらめましょう。
 

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読書と思索のバランス

   2.読書と思索の上手なバランス
これもその通りですが、
思索するには、自分の中に考える軸が必要で、情報の蓄積が
ないとだめですよね。
(1)情報の蓄積において、先人はだれしも「古典の必要性」を
説きます。
このショウペンハウエルだけでなく、パッと浮かぶのが、モンテー
ニュのエセーのなか、マキアベリーの君主論、ディスコルシ、ソロー
の森の生活、繰り返し「古典を読むべし」が出てきます。
日本の古典論も幾多もあり現代人では小林秀雄岡潔もありますね。
ここでは出口治明さんから、いくつか引用しましょう。
「長年の淘汰に耐えて生き残ってきた文章だから、古典は文句なし
にいい」
 「優れた古典は、歴史であれ文学であれ、人間と人間が創り出す社
会に対する鋭い洞察に満ち溢れているが故に、凡庸な現代のビジネ
ス書を遥かに凌駕して私たちの血肉となるのだ。
言い換えれば、優れた古典は、歴史も文学も、勝者と敗者を余す
ところなく描き切る。

これに対して、凡庸なビジネス書は、功成り名を遂げた成功者の

懐古談の類であることが多い。」

(2)出典を忘れましたが、以下はよくあるジョーク

「自分なりに功成り名を遂げて成功者と思っている人が

自分の成功の秘訣はこれだ、後人に遺してあげよう、と老境に入り

悦に入って書き残したが、実は何のことはない。

同じ内容がもっと深く、かつ洗練された形で、2000年以上前にす

でに、考察されていた・・・

個人の能力なんて、そんなものかもしれません。

人間の本質は、昔から変わらないですよね

 (3)私見は、「読書と思索のバランス」にはまず「読書をしっかり
すること」に思います。
確り読書をして、身についてあ上で、個々人の施策は、稚拙であっ
ても「受け売りの浅はかな印象」は、受けないものです。
 
 3.感想
情報を得る手段として、読書の位置は、少なくとも自分の中では変わ
らない、と思います。
 優れた情報は、はまだまだ書籍の中に多いと思います。
(どんな優れた思索の形も、文字として残らなかったものは、諦める
より仕方ない。)
しかも、流れる動画情報と違って読むスピードは、自分の理解の速
に調節できます。
学んでいきたい意識もずっと変わらない。
末長く、できれば、私の脳が受け付けなくなるまで、付き合ってい
いきたいと考えています。