中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

長い間稼ぐには情報の蓄積が必要 学びながら稼げる体験は得だと思う。

1.仕事の損得勘定?

なんか、年寄りの小言みたいになりそうですが、本日言いたいことは

以下の通り。

〇属する組織が提供する「広義の研修」はうまく利用しよう。

〇学びながら、つまり勉強しながら、費用を支払わないで、逆に

 お金をもらえる体験は、とても貴重だ。

〇飛び出して、ほかのことをやるのもすべて本人に決断であるが、

 特に若いうちは、大きな決断の前に一歩引いて冷静になり

 「損得勘定」を考えてみるのも、いいかもしれない

 ということ。

 

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2.若いうちからのフリーへのいざない

「勧誘」文章に以下のようなことはよくあります。

 ・自分の時間を大切にしよう。

 ・組織にこき使われるのでなく、自分自身がオーナーとなり、

  若くして自由と報酬を手に入れよう。

 ・自分がそうだった。きっと君もできる

 式の勧誘は幾多もあるでしょう。

もちろん、納得のいくる見解もあるし、少なくとも、言っている

(書いている)本人が「自由と望む報酬」を現時点で体現している

のでしょう。

私のような年齢になっていつも思うのは、主張する本人が持つ情報の

蓄積で今後、何年らい食えるのだろう。

もちろん、組織から、お金を出してもらい、学んだことが、今後10

年、もちろん20年、30年生きてくるかは、答えは誰にもわかりませ

ん。(属人的要素も強いでしょう)

自分で冷静になって、損得勘定で考え見ると、いいと思います。

どの世界でも、一生勉強であり、今後は常に情報をアップデイト

しなければ、生きていけないでしょう。

ただし、若いころしかできない「情報の蓄積」は確かにあり、大きな

組織、余裕のある組織にいて、「広義の研修」を受けられるなら、飛

び出さず、「待ってみる」のも一つの手。

チャンスがころがってているうちは、目先との比較検討で、よく考え

てみよう、ということです。

 

3.先人も他人にお金で学ばせてたもらった。

(1)かつて、日本企業や役所等の組織に余裕があり、ほんの一部

のエリートだけでなく、割と多くのヒトが「広義の研修」を受けた、

時代がありました。

研修の形(大学や別の組織への留学や、社内での缶詰研修だけでなく

OJTも含んで)で学ばせてもらうのは、貴重な体験であり、経済的

に、とてもお得。

現在も「研修」はあるのでしょうが、まだまだ余裕がある頃の、大手

民間企業は、たしかに「研修」をよくやっていました。

 卑近な例ですが、私は若い頃大手の証券会社にいました。

「入社後3年間(場合によっては5年間)は、リターンより出費が大き

い」とは、担当の研修部の面々が言っていたし、実施そうだったので

しょう。

例えば、ビジネススクールに会社の費用で留学、といえば、もっと

でしょう。

経営観点からみると、それくらいの期間、戦力化しなくても、耐えら

れる財務の余裕があったこと、戦力化すると、潤沢な粗利が確保でき

ることが見える環境だったのでしょう。

相対的に若い人に投資して、今後長くリターンを得ようというのは、

当然の組織の理論です。 賞味期間は長いほうが良い。

言いたいことは、学ぶ方も、お金を出す方の組織も、中長期的なリタ

ーンを考えている、ということ。

米国のビジネススクールMBA取得などは典型で、組織が提供してれ

る「研修」等は外から見ると非常に高価であり、お金をもらいながら

ですから(たとえ、相対的に低い給与・報酬であっても) 得です。

(2)少し歴史を遡ります。

明治以降、膨大な、若者が「留学」をさせてもらっいました。

ちなみに、森鴎外は独身のころドイツ留学、夏目漱石は既婚ながら

単身で、英国留学ですよね。当時まだ企業は、お金の余裕が少なく

て、「国家」のお金中心ですが、「貧乏国家日本に身分不相応」な

お金の使い方ですよね。

江戸時代に遡れば「当時の若者の「世界」である「藩」を離れて

江戸や長崎に「留学」も、多々あったようです。

もっと古く、遣隋使・遣唐使の時代もありました。

遡れば遡るほど、ほんのひと握りのエリートに、縮こまってきますが

「若い人に、組織が、お金をだして学ばせた」という土台は、同じで

す。 

話は大きくなりましたが、再度言いたいのは、他人のお金で学ばせて

てもらうチャンスは、利用する価値はありそう、ということ。

  

4.まとめ的に

  今日は特に、話が同じところをぐるぐる回るだけで、三段論法的

な、発展的な結論は、ありません。

同じことを最後にまた書きます。

 組織の投資を捨てて、会社(もしくは組織)をでて、目先に稼げるこ

とに向かうのも、向かわないのも、本人の判断。

タイミングも、本人の判断。ただし「若いうち」との賞味期限あり。

 誤解なきように、生き残るために継続して学んでいかざるを得なの

は、一生続く問題。

つらいですが、時代についていくために引退する年まで、ずっと学び

は必要のようです。

上記で述べた「若いうち、他人のおカネ」の話とは別です。

ズルや不正は、小粒とは言えない大きな問題には避けて欲しい 選挙開票作業報道から

1.訳の分かったような、意味不明のような、高齢者の独り言のような、

またあまりに当たり前過ぎる内容です。

タイトルの話は、米国大統領選挙の投票締めの翌日、未確定州の結果集計
に関して、どうも変だ、という話が横行しているのを聞いて、ふと私が思
ったことです。

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米国大統領選挙の集計結果がなかなか出ません。
2.歴史を振り返ると、今の感覚での不正やズルが横行というか、
当たり前というかそうやって歴史が作られてきた、という方か、普通
です。
肉親、友人含めて、ある時点での政敵と思われる人物を殺害してきた
事例は、枚挙にいとまないし、その手法も様々です。
二枚舌や裏切り、合従連衡は常時であり、讒言や濡れ衣嫌疑で、ライ
バルを排除した事例も幾多あったことでしょう。
先日紹介した、暴力の歴史では、「歴史は進歩している」という見解
客観的に暴力は、減っていている、とあります。具体的データに基
づき、この論旨展開は、説得力がありました。
さて、ズルや不正については、この周防の冒頭に書いた通り。
私に、歴史的な実証分析か、できるわけではありません。私の勝手な
想像ではありますが、暴力の減少とは違って)歴史とともに、「ズル
や不正」やり方が巧妙になっただけであって、人間の本質が変わら
ない以上、「ズルや不正」の頻度は、過去から変わっていないのでは
ないか?
つまり殺人や戦闘行為とか、派手で解りやすいズル行為や不正は減り、
目立たない巧妙な手法にとって代わっただけ、と思えます。
おそらく同世代人には、結果ズルや不正が証明できなかった、という
ことが、過去には多いし、今後もそうでしょう。
このことが、「ズルや不正の温床」ともなるのでしょう。
 
3.米国大統領選に戻り、「告発者」が真実を述べることを前提と
して いくつか事例を見ていきます。
 (1)選挙人登録者数より、投票者が多い、
これは簡単です。簡単な算数です。
投票率100%を前提としても、あふれる「登録者でない投票者」は、
調べていけば何とか、解りそうなものです。しかし現実には「二重
カウント」の突合は、難しそうです。
(2)開票率が進み、80や90%の時点で突然トレンドが変わって
しまった。
ある地域の投票率が90%近くとか、10万票を超える塊の投票用紙が、
ほとんどすべて一方の候補者にチェック。
これは、理論的には可能でしょうが、「常識」からすると、やはり
「ズルや不正」の匂いがします。
(3)郵便投票の締め切り日を、事前通知していた日程から勝手に
変更してカウントしてしまう。
以上いずれも、神と見まごうばかりの負債を憎み実直な「選挙監
視員」が、厳しく監視していないと、すぐ、かつ、いくらでも不
正をやれそうです。
三権分立の制度の中、「最後は司法の判断」しかないのでしょうが、
実務的にどれだけ裁判所が機能するかも、よくわかりません。
 
4.社会と個人の間に「世間」という規範があり、これに縛られ
易い日本人の話は、以前にしました。
トラブルの原因が、個人的なことで、「世間に迷惑をかけた」、
いう反省はある面日本的で、私はこれを完全に否定するわけでは
ありません。
私としては、法律に縛られなくて、自粛や身内のルールが横行する
世界での判断は苦手です。
ただし、「個人的なこと」はここでは良しとしましょう。
今日話しているには、「選挙におけるズルや不正」という公的問題。
もっと大きな問題のことです。
全体主義国家じゃあるまいし、それこそ民主主義という社会基盤
揺るがすものでしょう。
こんなことを、一個人の私が主張して、どうなるものではありませ
んが、「制度への信頼」、という意味では、全く嫌になります。
21世紀も、20年を過ぎた現在、まだまだアメリカ合衆国は、世界の
リーダーたる力を持っておりに、それゆえに「民主主義国家の気概」
を見せてほしい、ところ。
日本的な「おてんとう様が見ているから、悪いことはできない」との
理屈が通用するとは、思いませんが、なんとか「法の力」と彼らなり
の「倫理観」に、元づいて、「正しい」処理をしてほしい、と望む
だけです。

葬式は、要らない(読書感想文もどき) 10年前の作品ですが、方向転換どころか流れは加速

葬式は、要らない

 島田裕巳/著  

出版者    幻冬舎 2010.1

1.概要

(1)日本の葬儀はいつから豪華になったのか。古代から現代に至る

葬儀様式を鑑みて、日本人の死生観の変遷を辿りつつ、今激しく変わる

最新事情から、葬式無用の効用までを考察しています。

葬式に金をかけられない時代の画期的1冊で、ベストセラーになった

そうです。

2010年の作品で、今から10年前ですが、「古くて使えない」どころか

分析・見解の方向性は正しくて、状況は、加速しているようです。

私事ですが、10年前よりこの問題を深く考えるようになった、自分が

います。

 最近は「捨てられる宗教」の続き取り上げましたが、改めて著者紹介

をすると、

1953年東京都生まれ。宗教学者、文筆家。東京大学大学院人文科

学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学

教授を経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。

主な著作に「日本の10大新宗教」などがある、となります。

 

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葬式にはいろんな考えあり、ただし簡素化は流れ

2.本文からの引用

葬式を近親者だけで営むのであれば、世間一般に向かって個人がなく

なったことを告知する必要もない。近親者が最後のけじめをつければ

それで済む。直葬の増加は、寿命が延び、いわば大往生が増えてきた

ことが大いに影響している。  P34

 

今日の仏教は「葬式仏教」といわれるように、死者を葬ることを第一

の使命にするが、飛鳥時代から奈良時代にかけての仏教は、高度な

学問の体系として受容され、葬式仏教の側面は全く持たなかった。 

 P54

 

往生院は、今ではホスピスだ。源信は、極楽往生のためのテキスト

をつくり、それを実現するためのシステムを構築した。これによっ

て、仏教は死の世界と深い結びつきをもつこととなった。  P60

 

釈迦は、死後のことは、死んでみなければ知ることはできないとし、

生前に死後について考え方ることはできないし無駄だと説いた。 P62

 

法然親鸞は、仏教の教えを念仏行による往生に集約し、仏教と死

を強く結び付け、それを大衆化することには貢献したが、仏教式の

葬式を開拓したわけではなかった。  P64

 

禅宗において、在家のための葬儀の方法が確立され、それが日本の

社会全体に広がることによって、日本的な仏教式の葬式の基本的な

形態が生まれた。  P66

 

庶民は阿弥陀堂を建てることもできなければ、まして浄土式庭園を

造ることもできない。葬式の祭壇には、せめても浄土に近づきたい

と思う庶民の願望が示されているのである。P67

 

こうした世間や世間体の感覚が日本人のなかに育まれる上で重要は、

あるいは決定的な働きをしてのが、村落共同体の成立である。いくら

平安貴族に発する浄土教信仰が後世に影響を与えたとしても、村落

共同体が形成されなければ、葬式で見栄を張り、世間体をよくしたい

という思いを生むことはなかったであろう。  P74

 

仏教は、死者が赴く極楽浄土を、はるか彼方にあるものと想定して

いる。それに対して柳田は、日本人は、自分たちの家の先祖である

祖霊が、浄土のような遠方の世界に行ってしまうのではなく、子孫の

身近にとどまって、その生活を見守って行くのだと考えた。

(中略)日本人の信仰の核心には、祖霊に対する信仰、祖先崇拝が

あり、それは仏教の影響で生まれたものではなく、日本固有の伝統

的なものだというのが柳田の主張であった。  P77-78

 

  日本の仏教は葬式仏教になり果てたことで堕落してしまった。そう

考える人は少なくない。その堕落の象徴が、戒名と戒名料なのである

P96

 

明治維新が起こり時代が変わると庶民も名字を持つようになる。それ

が家についての意識を強め、戒名への関心も高めた。出来るだけラン

クの高い戒名を望む意識は、近代になってから生まれたものである。

P103

 

家を単位とした葬式や葬り方が、今や実情に合っていないのだとも

いえる。葬式をめぐる変化は、これからも続いていくことだろう。

その変化の全体を眺めた時、方向ははっきりしている。葬式は明ら

かに簡素化に向かっている。それは、葬式を必要としない方向への

変化だともいえる。今や現実が葬式無用論に近づいているのだ。

  P153

 

最後まで生き切り、本人にも遺族にも悔いを残さない。私たちが

目指すのはそういう生き方であり、死に方である。

それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のものでも関係が

ない。生き方とその延長線上にある死に方が、自ずと葬式を無用なも

のにするのである。  P183

 

3.いま読んでみての感想

確かに、この10年間の日本社会の変化も、大きい。日本がバブル

経済に向かうにつれの、戒名料の動きが、背景説明からしてよく

わかった。

この10年で益々、平均的日本の個々人の経済的余裕が減少し、また

「葬式仏教」に対する、本書で提示された考え方が、方向転換する

どころか、ますます、加速しているように思えます

本文中にある「方向ははっきりしている。葬式は明らかに、簡素化

に向かっている。それは、葬式を必要としない方向への変化だと

いえる。」 という考え方が、現在に私の個人的状況を踏まえ、身に

染みて感じるのです。 

 

基準が違うので、議論がかみ合わないはず コロナ、選挙、宗教観から。

今日は、また書評でも特定の社会問題でもなく、私の勝手な思索。

といっても、単純な話です。

よく「議論がかみ合わない」と感じることがありますが、往々にして

「基準が違うのではないか」と思いあたります。

1.PCR検査を例にとりましょう。

新型コロナを第二派だ、第三波だと、大騒ぎする人がいる一方で、

実質的には集団免疫達成、新型コロナウイルスも通常の風邪同様

すでに蔓延状態、ゆえに恐れるに足らず、との見解もあります。

私が不思議の思うのは、PCR検査の陽性基準について、一般人に

分かるように、なぜ誰も解説しないのか。

そもそも、検査陽性・陰性の一定の基準があるのか。

日本国内各地の基準もさることながら、米国、南米各国、欧州各国に

ついて、統一した基準があるのか?

統一した基準があるなら、なぜ公表しないのか?

例えば、ある数値基準が日本では陰性、米国では陰性、スペインでは

陽性なら、今の報道スタンスが、違う気がします。

「議論が、かみ合わない」のも当然の気ことで、何が議論が変です。

 

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和やかに、冷静に話し合っているイメージ

2.アメリカ大統領選挙

これについては、論点多数です。

マスメディアは、報道の中立性というより、共和党民主党それぞれ

の「応援団」の感があります。具体的には、有利不利の「客観的」報

道よりそもそもメディア自身の「こうありたい」との思惑があり、そ

れを反映した報道と感じます。

そもそも有権者と、投票者は違うわけで、投票者をどう予測するかで

精度を、争ってもらわないと、それこそ基準が違った、かみ合わない

事になります。

そんなことは百も周知での報道かもしれません、わざと「基準」をず

らす?

ちょっと脱線します。

その1:米国大統領選挙の選挙日は、火曜日で、これは憲法で決まっ

            ているそうです。日曜は教会へ行く。キリスト教の国ですか

            ら、そうなのでしょう。国土は広いし、昔は月曜に馬に乗って

   投票所まで出かけた。一日がかりもあろう。よって、翌日の火

   曜日が投票日だそうです。

   もちろん交通事情は、立法時と変わったにしても「憲法」事項

   ですから、改定の手続きは厄介ですね。

その2:これを書いているのは日本時間で11月4日午後です。

   「激戦州」のジョージアで90(~95)%ほど開票して、夜遅く

   なった ので開票スタッフは帰宅、また明日集計作業開始、との

   こと。

    国民性というのか州民の意向かは分かりませんが、「日本で

    は考えられない」感じです。

 
3.宗教上の議論
(1)これは、「基準」を超えた、世界観の話かもしれません。 
一神教多神教を例にとると、私自身は「神様はいたるところにい
る」という多神教的世界観ですので、頭では理解しても、一神教的感
覚が、解りません。
生死観もそうでしょうし、ましてや、「最後の審判」を待つという発
想は、欧米の映画の世界でもよく表現するでしょうが、私にはどうも
しっくり来ないのです。
(2) 少し、からみます。
原罪の西欧社会が、神が支配する「社会」から人が支配する「社会」
に変ったという説明は解るし、そこでの「基準」が法律というのも納
得します。
一方日本には「世間という基準」があって、法律に基づく罰則でなく
世間に迷惑をかけるか否かが、判断基準となり、自粛という行動規範
が意味を持つ事になります。
この「世間」の発想は、高齢者特有でなく、日本人に面々と続く感情
と思います。
「関係者のみの個人的なこと」である不倫やいざこざが、なぜか広く
直接無関係な人の関心を誘うし、「世間に迷惑をかけた」という発言
が出てくるし、また、どう考えても論理的でない「コロナな差別」が
日本各地で発生します。
また、空気を読む・読まない、とは、若者も使うし、世代を超えてあ
まり変わってないように、思います。
 
 4.まとめ
・基準が違うと、同床異夢であり、「ことを荒立てない」方向では、
コンフリクト(葛藤)は緩和されるかも知れませんが、詰めた議論を
すると、必ず「ずれて」来ます。
そもそも相いれないもの、ということのようです。
 ・宗教に話を戻すと、例えばイスラム教のように、生活様式を縛り、
世界観のもとになっている立場と、いわいる「葬式仏教」と捉え、あ
る生活の一断面のみに宗教が生きてくる世界とは、相容れるはずは
ないでしょう。
米国選挙に見られる「政治信条」もそれに近い。
一気に解決の処方箋などありませんが、解決の道に近づくのは、絶え
ない深い勉強を通じて、相手のことを理解しようとし、寛容の精神
をもつ、といういつもの結論にあるように、思います。
 

今週のお題「急に寒いやん」 昔話(運動会) 衣(ネクタイ) 食(鍋、アルコール)

今週のお題「急に寒いやん」です。

ネットを見ると「雨やん」「晴やん」とかのスタンプもあるそう

ですし、ある地方に行ったとき「・・・やん」を会話に連発する

女性に会ったことは、ありますが、私自身が「・・・やん」を使

ったことがなく、いまいち、ニュアンスがわかりません。

「急に寒くなったこと」で、思いつく話を、いくつか拾ってみます。

 1.まずは、昔話

私が小学生のころの運動会の思い出です。

当時の運動会は秋に開催、つまり10月の最終日曜日または11月の

最初の日曜日が、本番だったかと思います。

一大イベントであり、夏休みが明けしばらくすると、まず体育の

時間から練習開始だったような。

「練習のころは暑かったのに、本番になると、急に寒くなった」

といつも、感じていました。

 

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急に寒くなって「ワカサギ釣り」をイメージ

2.ニガテのネクタイ

私は、そんなに暑がりではないですが、ネクタイによる「締め付け」

はニガテです。しかし寒くなると、違和感が、ずいぶん減ります。 

「11月から4月までの間のネクタイ」という昔はなかったクールビズ

は私には、とても心地よいものです。

いろんな考えがありますが、私はスーツは、仕事をする上で一番無難

な「作業着」と思っています。頭を悩ます必要があまりありません。

以前少し知人の吐露として「女性の多い職場での私服強要の苦悩」

書きましが、寒くなってネクタイ問題解決した今頃は、私には快適

です。

 

 3.鍋料理

(1)「食欲の秋」を飛び越えて、ぐっと寒くなって、鍋料理の話。

我が家は、肉の場合は、牛肉、豚肉主力のしゃぶしゃぶ風かまたは

魚中心の場合は、鮭、タラ、カニ中心の醤油ベースの海鮮鍋です。

邪道と言われようが、家庭鍋ですから、野菜と、豆腐は、かなり多

めとなります。

出汁は、自分で作る場合もあれば、スーパーで市販の出汁を買って

きて、そのまま使う場合と、アレンジする場合と。。。。

何をもってオーソドックスというか分かりませんが、我が家では

キムチ鍋とか、エスニック風の鍋料理はほとんどしませんでした。

私が子供の頃は、鶏を使った水炊きが多かったようで、たまには

イノシシ鍋を、父母が作っていました。

 (2)脱線して、シチュー、おでんの話

 今は社会人となり家を出て外にいますが、次男はホワイトシチュー

が好きでした。デミグラスソースのビーフシチューや、ビーフカレー

ポークカレーに比べて、素材のコストや、作り方の点でも、ホワイト

シチューは、重宝しました。

たまに「圧力なべ」を使うと、ほんと短時間でできます。

おでんも寒くなると定番ですが、勝負ネタは、タコだと思っています。

たしかにタコは高い、ほかの食材の何倍のコスト・・・・・

しかし、時間をかけて柔らかくなったタコとサトイモが私の好物です。

 

4.ホットでウイスキー、焼酎

料理の後は、アルコールの話です。

そんなに詳しい方ではありませんが、アルコールを温めて飲む文化

は、世界見渡して割と少ないようです。「冷やして」飲むのが定番の

ようです。ヨーロッパの「ぬるい」ビールのことを言っているのでは

ありません。「温めて」飲むアルコールの話です。

食は、文化であり、その地域の人が食べて飲んでおいしく、地元に根付

けばなんでもいい、「邪道」はなし、というのが私の持論です。

もともとのコーヒー文化の方が日本の「アイスコーヒー」を見て仰天し

ても、カリフォルニアロールは寿司か?といわれようが、中国と違う

「日本のラーメン」でも、なんでもいいのです。

同様に「ホットウイスキー」に違和感を感じる外国人も多いでしょうが

どうでもいいのです。

プライベートで楽しむ場合は、あくまで本人の嗜好。

私は個人としては、ビールや日本酒は、あんまり飲まなくて、年中焼酎か

ウイスキーです。暑い夏は、ロックで飲むし、寒くなってくるとお湯で割

って飲む。ただ、それだけです。 

捨てられる宗教(読書感想文もどき) 自分が生きてきた証を何かに求めて

捨てられる宗教

葬式・墓・戒名を捨てた日本人の末路

島田裕巳/著  

出版者    SBクリエイティブ 2020.9

1.概要

島田裕巳さんは、昨年11月に「仏教」について取り上げています。

とても分かりやすい本です。

教養として学んでおきたい仏教(読書感想文もどき) 私にとって仏教は身近 - 中高年michiのサバイバル日記

今回は、長い長い、人類史の中で「生死観の転換が起こった」話です。

未曾有の長寿社会が生まで、結果として信仰に力が急激に、全世界的

に弱まっていくことを、よく示しています。

社会で何が起こっているかを、綿密に分析しながら、誰もが逃れられ

ない生き死にの問題とどのように向き合っていけばいいのか、を問う

ています。

明快な結論が出る話ではありません。

まず、「生死観の変化」を自分の深いところで、捉えることですね。

 

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宗教の役割が変化しつつあります。

2.本文からの引用

 葬式が減った理由

 ・高齢で亡くなると、家族以外に参列者がいない

 (同年代は既に亡くなっているか、病院で動けない、とか)

 ・企業が葬式にかかわらなくなった

 ・経済環境が悪化し、葬式にかねをかけられない人が増えた。

 ・葬式の簡素化が著しく進行した   P44‐47

 

 戦後は(寺院の)世襲の傾向が、その寺の子弟が継ぐことが多く

なったが、檀家が減れば、子供も住職の道を選ぼうとしなくなる。

これから地方を中心に、ますます寺院が消えている事態が起こる

かも知れない。P62

 

トランプ大統領の支持基盤となったアメリカの福音派は、むしろ

中西部の農村地帯に多いが、それは例外で、経済発展が続く国では

福音派は拡大する。

(中略)

経済発展が止まり低成長の時代にはいって、都市化にブレーキがかか

ると事態は変わる。  P73-74

 

神道系や仏教系の既成教団の信者数減も衝撃だが、新宗教の信者の減

り方もすざまじい。(中略)

その原因は、さまざまに考えられるが、大きな理由としては、信者の

高齢化と世代交代の失敗があげられる。  P75

 

宗教は、新宗教を含め、すでに時代遅れのものになっている感があ

る。宗教は用済みになったのかもしれない。日本の宗教は、今や間違

いなく消滅の危機にさらされているのである。  P80

 

生死観A 寿命の短い時代

「いつまで生きられるかわらない」   p92

 

今の私たちは、長寿を持て余すようになっている。人生のあまり長さ

に、かえって不安を感じるようになっている。そんな時代は、これま

で訪れたことがなかった。 P104

 

生死観B

90歳くらいまで生きることを前提に人生設計しなければならない。 P107

  

宗教が生まれたのは、生死観A の時代においてである。それが生死観B

へと転換すると、当然ながら宗教は力を失っていく。人生110年時代

になれば宗教がその力を維持することは難しい。人々は宗教に期待を

持たなくなっていくのだ。  P112

 

宗教は、死後の世界が実在するとし、よりよい世界に生まれ変わるた

めには現世において善行を重ねることが必要であると説いてきた。

今や、そうした宗教の最も重要な武器が通用しなくなっている。

日本の既成仏教が、さらには新宗教が大きく信者を減らすのも必然的

なことである。 P125

 

死生観Bの時代に入った以上、私たちはアリになるしかない。キリギ

リスのように先を考えなければ、未来のは苦しみが待っている。

それがわかっている以上、私たちは未来のことを、長い老後のことを

常に念頭において行動しなけれがならない。死生観Aの昔に戻ることはできないのだP144

 

日本人の信仰の核心には祖霊に対する信仰、祖先崇拝があり、それは

仏教からの影響で生まれたものでなく、伝統的で固有のものだという

のが柳田の主張であった。 P188

(michiコメント:なるほど、祖先崇拝は仏教徒は無関係ですね。)

 

今や家庭のあり方は変わり、それぞれの家からは先祖がいなくなっ

た。家自体が長く続くものでなくなってしまった以上、その家を作り

上げた先祖などいなくなる。

先祖になるという目標が失われた生死観Bの世界で、私たちはどうや

って生きていったらいいのか。  P190

 

死にたくはない。けれども、生きている甲斐はない。死後に、あの世

に生まれ変わることを楽しみにすることも現代人には不可能である。

厄介な時代になったものである。  P228

 

大切なのは、 世界を理解することである。何かを納得できたとき、

私たちは自分の生が決して無駄なものではなかったあことを知るの

ではないだろうか。   P235

 

 3.私の感想

 当たり前のことを書いているが、ショックを受けた本です。

よく知っているが、目をそらしていたことを、改めて突き付けら

ました。

生死観は変わりました。「いつ死ぬかわからない」から、「死に至る

までスケジュール化された人生を歩むしかないのでしょう。」

となります。

恥ずかしながら、自分に引き直すと、「かねの問題」が一番大きい。

一日も早く、対応しておくべき、とは頭でわかっていても・・・。

「ゆっくり身体中に毒が回ってくる」ような読後の快感はなく、

「現実の冷や水」をかけたら「参った」という気分です。

巻末はいいですね。

私も「自分の生が決して無駄ではなかった」と、言いたい。

これからも、長い長い闘い。 

 

 

「好きなこと」に頑張れる高齢者は、うらやましい いろんな要素が積み重なって、でしょうが・・・

1.「好き」で過ごせる高齢者はうらやましい。

今日はいきなり、結論から入ります。

いろんな理由により、世界的に健康寿命が長くなったと思います。

「過去形」でなく、現在進行形です。

 そういった中で、「経済的理由」により働かざるをえない状態が大部分

 のなかで、好きなことをやって、過ごせる人が、一部います。

 そういった方々は、うらやましい、という結論です。

 「働く」ことを、どう定義するかは、各人様々ですが、社会から

 「認知されている」ことを、今回は話の基礎に置こうと思います。

 つまり、大多数の人々は「経済的理由から高齢になっても働かざる

 を得ず、結果として社会的認証を得る」なかで、強制されないこと、

つまり自分で選択できた「好きなこと」で、過ごしていけるのは、

やはりうらやましい、ということです。

 

2.好きで働く、高齢者の事例(独断と偏見で)

(1)今回、米国大統領選挙関連を例にとりましょう。

現職トランプ大統領は、1946年6月生まれで、74歳です。

日本流でいえば「75歳の後期高齢者」の一歩手前です。

誰が見ても立派な「お爺ちゃん」ですよね。

聞くところによると、大富豪であるし、経済的に「働かざるを得ない」

訳ではありません。しかし、高邁な自分の理想実健のため、万難を排して

頑張っているのでしょう。

誤解を承知で私見ですが、本人の意志は認めますが、煎じ詰めると

「好きで」やっているように思えます。

家庭だけでなく、一族郎党を食わせる責任がある、というレべㇽの経済

基盤は、はるか前に確立しているでしょう。

さて、対抗馬の、バイデン氏 1942年11月生まれの77歳。

年齢はもっとすごい。日本流で「後期高齢者。」

認知症を揶揄するネガティブキャンペーンの真偽を判断する情報は

和t菓子にありませんが、「常識として」78歳から4年間の激務に耐える

前提で、立候補したのだろうか?とは思います。

彼の場合も「経済的」に働かざるを得ない、わけではないようです。

 

(2)選挙の話を続けます。

トランプサイドに、元ニュウーヨーク市長で弁護士のジュルアー二氏、

バイデンサイドに、投資家のジョージソロス氏をあげましょう。

ジュリアーニ 1944年5月 76歳 かなりの年齢ですね。

ソロス1930年8月生まれ 90歳 またすごい。たしかにイソロス氏は、

私がまだ若いころから、金融市場の第一線にいた著名人です。

「黒幕」表現がピッタリかも知れませんが、 90歳という生理的年齢で、

今後どれくらいの期間「正常な判断」が可能なのでしょうか。

まさか、本人も、自分が不老不死とは、思っていないでしょう。
しかし、外的な強制引退はないでしょう。(猫に鈴を付ける人はいない)
死ぬまで、好きなことをやれる、としかいいようはないと思います。
(3)話戻って、上記に挙げた「お爺ちゃん面々」は、潤沢な資金があり
医療体制のバックアップは十分享受できます。
また、自分自身も健康管理に注力でしょうし、「一般人より、長持ち」で
あることは否定しません。
(トランプ氏の直近のコロナウイルス感染からの、復活劇も記憶に新しいです。)
最後にもう一人紹介。私が敬愛する投資家のウォーレン・バフェットですが、
1930年8月生まれ 90歳だそうです。
彼の投資判断の的確さへの、今後年齢の影響は、誰も言えないでしょう。

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「経済的不安を感じない人」の方が「稀」では?

 

 
3.打って変わって自分自身
いきなりスケールが変わり、話がトーンダウンして、自分自身のこと。
「経済的に働かざるを得ない」サイドの事例です。
最近読んだ作家・宗教学者の島田浩裕己氏の言葉を借りますが。
「私は早く死ぬ、もう過ぐ死ぬ」という逃げは、通用しなくなって
きているのでしょう。
長い長い人類の歴史のなかで「自分はいつ死ぬかわからない」とい
う不安から「ある面自分の意志を度外視しても、80年から90年生か
される可能性高い]という不安の時代へ。
上記の2のごく少数の「好きで」仕事をして、先が見通せる方は幸せで、
「先々見据えて、自己責任で、なんとかファイナンスしていかねば」
という、方は程度の差はあれ多いでしょう。
もちろん、私に「処方箋が出せるわけはありません。
   冷徹なスケジューリング(自分は90まで生かされるのだ)が必要。
   「過去の栄光」に無関係に、原猛内は働く。
   なるべく資金をながらえさせる生活。
   難しくて、時間を費やせて、お金がかからない趣味等々
   決定打があるわけはありません。
「厄介な時代になった」と再認識するだけ、です。