1.終わりの時はどうだろうか?
(1)今日はいきなり、重いスタートですが、自分の死後を考えてみます。
例えば、終末論を信じるキリスト教徒は、 いつか終末の時が来ると
信じているのだろう。
時間は、一直線に進み、最後の審判の時を迎える、というのはゾロ
うですね。
指します。
一方私の生死観は、時間はぐるぐる回る、輪廻転生に近い考え。
人間は、ほかの生物から峻別された、特別な存在とは思わないし、
他の動植物に生まれ変わることもあるでしょう。
(下記の、宇宙の一元素の意味合いも含みます。)
神が人を作ったとは思わないし、人が神を作ったと考えます。
私にとって神は、そこら中にたくさんいます。
(2)さて、死んだらどうなるかですが、宇宙の元素のひとつと
して、何らかに再構成されるのでしょうが、 それがなにかは、
解らない、と言う感覚がここでの結論です。
確かに、自分が死んだあと(ありがたいことに、おそらく)
肉親や知人の一部の記憶に残るでしょうが、せいぜいそれも50年
くらいでは、ないでしょうか?
確かに、私は祖父母は、明確に記憶がありますが、それより前は
解りません。
私には子供がいますが、彼らには、当然「私の祖父母」の記憶は
ありません。
古今東西、権力者は、死後も何とか自分の存在を残そうと考え、
墓やいろんな建造物を残そうとしたのでしょうが、そもそも
不老不死は無理です。
ヘロトドス「歴史」7巻45章ー46章に下記記載があります。
いわいるペルシャ戦争の際の話です。
海岸という海岸が自軍の軍兵で満ち満ちいるのを見て
ペルシャの大王、クセルクセスが涙を流します。
「これだけの数の人間がおるのに、誰一人として百歳の齢まで生き永らえることができぬと思うと、おしなべて人の命はなんとかないものかと、わしはつくづく哀れを催してきたのじゃ。」
自分含め誰しも老いていくし、この屈強な若者で構成する大軍団も、
所詮人間の集団だから、数十年もすると、誰もいなくなってしまう、
ということですよね。
仏教の無常観にも通じますね。
2.とても苦しい時に
2020年1月7日に、下記タイトルでアップしています。
そこで言いたかったことを、再度記載すると
社会的地位や資産や肉親、友人、知人を失ったとする。悔しくて情けなくてしかたない。しかし、立ち直りのためには、認知を変える必要あり。そもそも社会的地位や資産や肉親、友人、知人すら、自分が所有できるものでなかったのだ。今まで、自分の周りに存在してくれて、楽しい思いをさせ てもらい、ありがたかった。失ったのでなく、借りていたものを返して、元に戻っただけ。私独自の発想ではなく、何かで読んだ僧侶の言葉だったかと思います。
タイトルに「再論」と書いていますが、今がとても苦しい人に、
わずか数か月で「練り上げた新機軸」が提示できるような、やわな
問題ではありません。
先般の回答事例をリピートするだけ、つまり
失ったのでなく、借りていたものを返して、元に戻っただけ。
だから、あまりに、無限に落ち込んでいくのはやめよう。
命はつないでいこう。
現実に、今餓死するとか、重い病で死んでしまうわけではなさそう。
(この表現も私は、よく使いますが)今の日本では、戦場での死亡
や、政治的抹殺=「生物的死」の恐れは、とても低そう。
「経済的死」の可能性が、高いというだけ。
百歩譲って、「経済的死」を迎えたとしても、「生物的死よりまし」
との発想がもてれば、それでもいい、との考え方もあります。
3.最後に
全体のトーンがとても重苦しいので、最後は 、「塞翁が馬」といき
ましょう。
人生は、思い通りにはいかないし、苦しいいことの連続です。
それを普通と考えましょう。
とはいえ、人智を超えたところで、将来何かいいことがある
かもしれません。
前向きも後ろ向きも、結果が同じだとしたら、前向きのほう
が精神衛生上もいいように思います。
それこそ「棺桶に入るまで」勝負は解らないのです。
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