中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

「隷属と安定」でなく「自由と自立」を求めるべきは正論だが、つい「易き・安き」に流されそうな私

 私の知的レベルで書く内容では政治思想云々は、もっとも「受けない」

ものの一つでしょうが、私なりの気概と現状を書いて見ます。

1.自由と自立

(1)「気概」の方は、左寄り右、保守主義、「隷属と安定」を求める

より「自由と自立」を貴ぶ、リバタリアン的、反グローバリズムといった

ところでしょうか。

今回は、藤井厳喜さんの言葉を借ります。

私の考えにも、相当近いところです。

 ①自由とは自律であり、そのマイナス面は不安定だということだ。自由

というコインの裏側には、不安定と書いてある。一方、権力者への従属

や隷属はすなわち、身の安全を確保する最低のやり方である。

自尊心を捨て、自由と自立を犠牲にすることにより、安全を確保しよう

とするのが、奴隷根性である。

自由は自立・自律であり自己責任である。自立心がある人間は誇りと名

誉を持って生きることができるが、常に不安定と危険に直面している。

そして戦うことによって自らの身の安全を手に入れるしかない。

これに対して自由を犠牲にして隷属を受け入れる者は、安全を手に入れ

るが、自己決定権をすべて放棄してしまう。当然、自尊心は失われ、単

なる利己主義だけが残るのだ。自らの行動に責任をとることはないから

無責任で、一方的に最低限の身の安全や安定を与えられることだけを望

んでいる。現代社会ではこの傾向の行き着いた先が社会主義なのだ。

藤井厳喜 米中最終決戦 P275より)

  ②日本の官僚は、もとより官僚主義中国共産党とウマが合う。

共産党支配とは要は、官僚支配である。彼等が気が合うのは当然

なのである。  (同書 P278より) 

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(「自由と自立」のイラストは難しく「子供の自由研究」にしました。)

日本人の自由を犠牲にしても権力から安定を与えられたいとい

う受け身の安定志向が、こういった結果をもたらしてきたのだ。

それこそが最も根本的なところにある日本人の間違いである。

隷属によって約束される安定は、奴隷身分の安定でしかない。

それは真の安定でなく、自らの安全を奴隷所有者に全面的に

委ねる敗北主義に過ぎない。奴隷の身分では、生命も安全もす

べて他者の支配にゆだねられており、全く保障されていないの

である。つまり安全を与えられようとして、安全を放棄してしま

っているのが、現在の日本の哀れな姿である。 (同書 P279 より)

 

 (2)引用でなく、自分の言葉で、噛み砕くと、

自由な人間として、生まれて生きていける以上、自由であることが

常に不安と危険であっても、自己責任金をもって「自由と自立」を

貫いていかねば、と言ったところでしょうか。

「自由であることに誇りを持つ」ことは、決して楽ではない、とい

は、身に染みています。

 

 2.「易き・安き」に流されそうな私

 上記1の「自由と自立」は、正論と思っているし、そうありたいと

願っています。

(1) とはいえ、現状は、楽して問題解決(目的達成)、自分だけは得

する方法の模索、といった「安易な生き方の典型」みたいなものです。

ずるいですが、周りから感じた事例を以下少し。

「楽して」や「自分のみは生き延びる」願望は誰しもあるもので、

女性は誰しも「楽して痩せたい」願望があり、経済的に余裕がある人

が狙い目と、あるエステサロン経営会社の部が言っていましたし、

また、知人の高級官僚が昔言っていたのは、コースをはずれたら結局

何もできないから、現体制にいる。

当初よりコーズ外れるなら、反体制派(例えば労働組合とか)の組織

の中で、権力を握りたい。

 

 自分がかわいい、自己保存願望も、人間の性(さが)ですから、致し

方ない事。現状の私ま、まさにそう。

(2)話はずれますが、ある組織で自分の地位を確保、存在意義を示

すため、より主張が極端になりがちです。

右寄り組織でもっと右、左より組織でもっと左とだんだん過激になっ

て行くのは、自己保存願望に一つの事例、かも知れません。

私は、このブログで、

相手(反対勢力)に対抗するための「何でも反対」戦略を書きましたが、

「何でも反対」戦略は、うまくいきそうで、現実に、はつじつまが合わなくなる可能性大で、難しそう - 中高年michiのサバイバル日記

こと、当該組織内部を見ていくと、自己の居場所を確保するためより先

鋭化、過激化していくことも、歴史を見るとよくあります。

 

3.最後に

 人間(生物)として自分に残された時間は短く、かつ自分の主張も存

在も世の中に何の影響も与えないことは認識しています。

ただ「易きにつかず正論を」ということを、継続したいと思うだけ。

何のため、でなく、自分でやりたいから、しか答えはないでしょう。