中高年michiのサバイバル日記

世の中のこと、身の回りのこと、本のこと、還暦の中高年がざっくばらんに書きつける日記

スマートフォンがメモ用手帳代わり 高齢者の独り言 自分の存在意義

1.忘れ物

先日の外出時、部屋に忘れたスマートフォン取りに帰りました。

幸い電車の中で思い出したのではなく、自宅を出てゆっくり歩い
ていて、ある思いつきをメモしようとして、置き忘れに気づいた
という顛末です。
 実は、ほんの数年前まで、「携帯電話を手放せ無い若者」を内心
嗤っていた私ですが、最近はスマートフォンが手放せない、自分
に気づきます。
 今でも、若者に比べたら、はるかに活用していないでしょうが、
私なりに重宝しています。
 
2.私なりの利用
(1)第一義的には、メモがわり
保存、保管、呼び出し、展開、とにかく利用に便利です。
もともと私は整理整頓はニガテで、「仕事(デスクワーク)」を
する環境が「PCの普及・機能向上」とほぼ同時期にあったので、
大変助かりました。
諸先輩みたいに、紙保管の文書を、スムーズに取り出し、活用す
ることは私には、できなかったでしょう。
とはいえ「プライベート」では、紙製の手帳をずっと使っており、
メモもよく手帳にしていました。
私の文字はとても読みにくく、あとで読み返して自分自身でも解
不能な場合がよくあります。
親しい口の悪い知人は「手帳を落としても、外部に情報が洩れる
リスクが少なくて安心ですね」と話していました。
その私も最新は、紙でなくて、スマートフォン上に、メモしてい
ます。「変換ミス」以外は、文字が読みにくいことはないし、か
なりの長文もOK。ほかの文章作成の一部にしようとしたとき、
コピー&ペーストで対応できます。
なお、ホワイドボードを、写真で撮って活用、とまではまだ行き
つきません。
 
 (2)もう一つは、情報収集
歩いていたり、電車に乗ったり、視覚はだめですが、聴覚は利用
できる場合、スマートフォンでニュースを聞いている場合が多い
です。
一般的なニュースのほかに、特定の解説記事も聞きます。
国際政治・経済関係のニュースが好みですが、直近は米国大統領
選挙関係が多いです。11月3日の投票日は過ぎましたが、まだま
継続して盛り上がっています。
当たり前ですが、書籍にはない、タイムリー性があります。
少し前まで、外を歩きながら、世界のニュースソースに触れるこ
とは出来なかったので、「技術革新」ですよね。
 
(3)小口出金
私も最近、小銭を使う場合がずいぶん減りました。
キャッシュレスでの買い物は、カード利用が多いですが、一部
スマートフォンも使うようになりました。
これも当たりまえですが、「慣れ」の問題。
昔も今も、あまり物欲はなく、「キャッシュレスで買いすぎる」
ことはありません。
常々思うのは、「ネット広告」のすごさですね。
いやいや、これも紙媒体の広告と、思わず比較してしまう年代の
たわごと、かもしれません。
 
3.最後に
若い年齢の読者にとっては
「オジサンが、当たり前のことを、さも大変な事のように書いて
いる駄文の典型」、でしょう。
しかし、この流れは、いつの時代もあること。
有史以来というか、ホモサピエンスの歴史そのものが、長い長い
技術革新の長れの中にあるわけで、「先人が知らないこと」を、
後々の人は、「知ること」になります。
脱線ですが映画のテルマエロマエで、「古代ローマ人は電気を知
らない」という、当たり前を、面白く描いていました。
もっとも、人間の脳自体は、1万2千年ほどは変わっていないそう
で、つまり喜怒哀楽の感情は、同じでしょう。
ただ、「道具」の進化だけで、とうそぶくこともできます。
ただし、AIがもっともっと進歩して、あなたにできる仕事は
もうありません。あなたの存在意義はありません。しかし、なる
べく周りに迷惑をかけない範囲で、あなたを生かしてあげます。」
と言われるのは、怖いです。 

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スマートフォンでメモを取るのは、当たり前のこと?
 
 

PCR検査の陽性基準を、リポートしない不思議さ これをもっと国民に知らせるべきでは?

1.PCR陽性請基準

新型コロナについては、何度も書いてきました。

私は、「日本は集団免疫成立済み」というのが、基本的考え方で

PCR検査で「残骸」を検査して、陽性者だどうだと騒いでも、あま

り意味がない、という考えです。

いつも、不思議に思っていたのは、新型コロナで大騒ぎする人々が

どうしてPCR要請基準について、議論しないのか、ということで

した。

私は、新型コロナに対して、普通程度にニュースや、解説情報を入手

しているつもりですが、私が知りたい「PCR要請基準」について、

ほとんど情報がありません。

少し古くなりますが、2020年11月8日の新聞記事で、それらしきも

のを初めて見つけたので、各位と情報共有し、私見を少し書きたい

と思います。

新型コロナ:PCR「陽性」基準値巡り議論、日本は厳しめ? :日本経済新聞

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新型コロナのPCR検査陽性数値基準は、各国まちまち

2.新聞記事内容と、私の短いコメント

(1-1)新聞記事 

新型コロナウイルスを巡り、PCR検査で「陽性」「陰性」を判断する

基準値に注目が集まっている。

基準値に国際標準はなく、実は日本の陽性者が別の国では陰性と判断

される可能性もある。基準値をどう設定するかは海外でも議論になっ

ている。

 PCR検査は検体の温度の上げ下げを繰り返すことで、ウイルスの中

にあるRNAを増幅し、感染の有無を判断する。わずかな量でもウイ

ルスを検出できれば、感染を確認できる。ウイルスが存在しないか、

極めて少なければ「陰性」と判断される。

 (1-2)私見コメント

・とりあえず、この新聞記事内容が「真」としてコメントします。

やはり、基準値に国際標準はなく、実は日本の陽性者が別の国では

陰性と判断される可能性もある、とのことですね。

・PCR検査は「ウイルスの残骸を検出」と聞いていますが、この

記事もそうですね。やはり陽性者を感染者というには、無理がある

ように思います。

 

(2-1)新聞記事

陽性と判断する基準値には、増幅に必要なサイクル数(CT値)を使う。

基準を高く設定するとウイルス量が少なくても陽性と判断される。

国立感染症研究所の新型コロナの検査マニュアルでは、原則この値が

40以内でウイルスが検出されれば陽性と定めている。

 一方、台湾では35未満に設定しているとされる。日本で陽性となった

人が台湾では陰性となる可能性がある。中国は中国疾病対策予防セン

ター(中国CDC)によって37未満を陽性と判断するが、37~40の場合

は再検査などを推奨している。

 日本でも一部検査機関では40に近いと再検査する機関もあるが、国

指針などはない。国際的にも40程度に設定している国が多いとみられ

る。

 (2-2)私見コメント

・台湾がコロナ対策の「最優等生」と聞いたいましたが、35未満とい

うのは「40よりゆるい」と読めます。

 中国はともかく、台湾と日本や、ニュージーランド、オーストラリ

は同程度と思っていました

 

(3-1)新聞記事

基準値が問題になるのは、この値を高めに設定すると、ウイルス量が

ごく微量で、他人に感染させる恐れがない人まで陽性と判断してしま

う恐れがあるためだ。

入院や治療が不要な人まで陽性とされる懸念がある。

 英オックスフォード大学の研究チームはPCR検査が死んだウイルスの

残骸を検出している可能性があると報告。英国の別の研究では、値が

25より小さい陽性者の85%以上は他人に感染力があるウイルスが培養

できたが、35を超えると8.3%しか培養できなかったとの結果もある。

 米ニューヨーク・タイムズの報道では、米国でも基準値は40前後に

設定されているが、一部の専門家から「30~35程度が適正だ」との

声も上がっているという。

 日本臨床検査医学会で新型コロナ対策を担当する柳原克紀・長崎大

教授は「ウイルスが極めて微量だから感染性がないとは現状では言え

ない。使う機械や試薬によってもCT値は異なる。この値だけで断言

するのは難しいだろう」と指摘する。

(3-2)私見コメント

本来の感染者、重傷者を対応するのが、医療の趣旨でしょうから、

素人ながら、「30~35程度が適正だ」と思います。

PCR信仰が消えない日本で、台湾並みに、した方が「PCR陽性

者」はより正確な情報になるかと思います。

 

(4-1)新聞記事

基準値を高めに設定することで、発症前や感染初期でウイルス量が

増える前の陽性者を確実に見付けやすくなる可能性もある。

柳原教授は「現在は安全性を第1に考え、日本は最も厳しく設定され

ている。研究が進めば基準の変動もあり得る。国際的な議論が必要

だろう」と指摘する。

 退院時にPCR検査を行い、陰性を確認する医療機関もあり、不必要に

入院期間を長期化させる恐れもある。日本感染症学会は10月、「検査

で陽性でも感染性が低い症例がかなりの頻度で存在する可能性があ

る」との見解を示した。

無症状でも退院させられない症例が増加しているとも指摘している。

 (4-2)私見コメント

 医療関係者が「慎重」な判断をするのは、立場上当然です。

これを踏まえて、政治決断は経済状態、国際比較等もっとマクロな

見地に立つべきで、また、それに伴う責任を持つのが政治でしょう。  

癒しとしての死の哲学(読書感想文もどき)死は人間的な生の要素であり条件

癒しとしての死の哲学

小浜逸郎/著  

出版者    洋泉社 2009.7

1.概要

最も今日的な生とは、死とは何か。

脳死とガン告知を手がかりに、死との新しいつき合い方を問いかけま

す。また医療における死の問題を哲学的な死の考察に結びつける情理

を兼ね備えた試みです。

目次でいうと

 序章 死はなぜ話題となるか

 第1章 死と生をどう分けるか (脳死と臓器移植をめぐって)

 第2章 死を」どう受け入れるか(癌告知の方法をめぐって)

 間章 安楽死するための哲学

 第3章 死はいかい哲学されてきたか

 第4章 死をどう哲学するか    となります。

 

著者は、1947年横浜生まれ。横浜国立大学工学部卒。

批評家。国士舘大学客員教授。2001年より連続講座「人間学アカ

デミー」を主宰

小浜逸郎さんについては、11月9日に取り上げており、2冊目の紹介

です。

死にたくないが、生きたくもない(読書感想文もどき) 長生きしてしまうのは避けられない - 中高年michiのサバイバル日記

 

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ギリシャだけでなくハイデッカー含む哲学者全般

2.本文からの引用

今回は、私の関心と、理解度の点もあり、網羅的どころか、「間章 

安楽死するための哲学」、「第4章 死をどう哲学するか」、

「あとがき」からの引用となります。

第3章のソクラテスプラトンエピクロス、智顕、源信、モンテー

ニュ、ショーペンハウアー、第4章のハイデッカーは、面白かったの

ですが、うまく要約できませんでした。

 

ただ、長く生きたってしょうがない。大切なことは、いかに良く

生きるかだ。ボケたり体が不自由になったりして、周囲に迷惑を

かけるまで長生きしたくない。ーーーーこうした思いは、おそら

く誰の胸にも宿っているだろう。もっと露骨に言うなら、自分の

ことに引き寄せる以前の問題として、家庭や老人医療施設で実際

にきつい介護労働に日々携わっている人などは、本音の部分では

「もうこの爺さんも早く死んだ方が、お互いのためにいいのに」

思っている場合が多いのではないかと思う。

いったい誰がそれを非難できようか。 

P159 「安楽死するための哲学」から

 

安楽死尊厳死についての説明

安楽死:末期患者に対して、患者の同意に基づいて、呼吸を止める

注射などにより、積極的に死への手助けを行う。自殺ほう助厳格な

条件でオランダが認めている

尊厳死:これ以上医療行為を続けても苦衷を増すだけで回復が不可能

であるとの医学的判断のもとに、人工呼吸装置を取り外すなどの形で

延命措置の打ち切りを行うこと。 消極的安楽死

医学的根拠、本人(家族)と医師との間の明確な合意のもと法的問題

なし。結構普通に行われている。   P160

 

私は家族の共同性を、人間の生にとって、最も深い現実的根拠を有す

る共同性であると考えるものであるが、個人の死もまた、家族のなか

でこそ一つの物語として生き続けることができる。

家族はいやおうなくその成員の死を生きるのである。   P171

  

 この「同類でありながら離れている」という意識を最もはっきりと

システムとして体現したものは言語であるが、実は、死に対する認識

のしかた、他の人の死を自分の死と同質の問題としてとり込むしかた

のうちにも、その人間的本質が見事に刻印されていることを私たちは

知るのである。

身近な人の死に際して、あれだけ私たちが悲しんだり、弔いの儀式に

精力を注ぐというのも、単に「会えなくなる悲しさ」からそうしてい

るのではなく、死者の運命を、そのまま想像的にわがこととして重ね

合わせることができるという構造を基礎にしていればこそなのであ

る。 P247  「第4章 死をどう哲学するか」から

 

「死」を、単に活力の終焉とか、生命の終着点としてだけ考え

るのではなく、私たちの日常的な生の構造契機とみなすことで

ある。死は、実は人間的な生の要素であり条件なのである。私

たちの生は死の事実に見据えられ怯えているだけなのではなく,

むしろ生が持っている活力の側面もまた、その具体的な発揮の

方向性を死の自覚によって与えられるのである。したがって

私たちが「死を哲学する」営みとしてなすべきなのは,死に

対する人間に固有の気遣いの在り方が、人間に固有の生への

活力形式へと転化されたものとして理解することーーーそし

てこのことを、普通の「ひと」の存在形式において示すこと

をおいて、他ならないのである。  P268

 

事実としての人間の死は、身近な共同性の中で飲み、一つの確実な

物語となるのだ。   P271 あとがき

 

 この三冊を通じて、読者の皆さんに訴えたいことは「人間の

死は、その他の生物の死とちがって、死についての自覚を媒

介として、それ自体が私たちの日常的な生の在り方をすみずみ

まで規定する根本的な条件になっている」ということになろ

うか。  P277

 

3.最後に(感想文)

 小浜逸郎さんの2作目は、とてもハードでした。

解説で竹田青嗣さんが書いているように、「ハイデッカーの死の哲

学」を「やっつけて」います。

私は、ついていけず、置いてきぼり状態。

まあ、仮にあと私が20年、30年生きるとして、勉強と続けられたと

しても「完全理解」には、ほど程遠いかもしれません。

それはそれで仕方ない。

 小浜さんに限らず、今後本の中で出会う人々をよく見て、ぶつかって

いくだけです。 

 

 

今週のお題「鍋」 好き勝手に味付けする「家庭料理」です。

今週のお題「鍋」です。

昔も今も、冬は鍋料理をよくだべます。

割と歓談な料理といってしまえば、それまでで「手抜き」のそしりを

免れないかも知れませんが、それはそれ。

要は、本人や家族が好みであれば、それはそれでいいのです。

まず、不可欠の要素土鍋から、次に具材、レシピと書いていきます。

1.土鍋の話

我が家で、とりたてて特別な土鍋を使っているのではありません。

しかし、大きくどっしりしていて、重い土鍋です。

すき焼きは別ですが、肉中心の鍋も、海鮮鍋も、おでんも、「ほうと

う」もこれでつつくります。

失敗談2つ。

①もう4,5年前ですが、ふとしたことから「鍋のふた」をレンジから

床に落としてしまいました。

当然というか、あえなく割れてしまい、同じ新しいものを調達しまし

た。「鍋本体でなく、ふただけ別売」というのは認められず、結果と

して本体の方は、ひっそりと、家の奥にしまったままです。

②直近は、おでんだったかもしれません。最後にしまうとき、いわい

る「生乾き」状態だったのでしょう。

家人からは「かび臭い」と怒られてしまい、彼女は鍋を再度洗いなお

して、完全に乾燥してからしまうそうです。

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鍋にもいろんな種類がありますね。

2. 鍋料理のメニューの話

(1)我が家は、肉の場合は、牛肉、豚肉主力のしゃぶしゃぶ風かま

たは 魚中心の場合は、鮭、タラ、カニ中心の醤油ベースの海鮮鍋で

す。

 邪道と言われようが、家庭鍋ですから、野菜と豆腐は、かなり多めと

なります。

 出汁は、自分で作る場合もあれば、スーパーで市販の出汁(鍋の素)

を買って きて、そのまま使う場合と、アレンジする場合と。。。

いろいろです。

①肉中心の場合

市販のつゆで味を付ける場合と、しゃぶしゃぶ風に、出汁の味だけに

して、ポン酢やゴマダレでいただく場合があります。

出汁は、昆布や、干しシイタケ、どんこを直接使う場合生協その他の

「混合だし」をうか奪いと、さまざまです。

②海鮮中心の場合

子供はシャケが好みで、私はどちらかというとタラと牡蠣が好み、

なお、カニは、親子は双方好きです。

なお、淡泊な鶏肉は「骨付き手羽」を、こちらの海鮮鍋に少し入れる

場合が多いです。

なお「白子」が好きなのは私だけのようです。

 何をもって「オーソドックス」というか分かりませんが、我が家で

は キムチ鍋とか、エスニック風の鍋料理はほとんどしませんでした。

(2)すき焼きの場合は別の鍋です。

昆布だしベースに、醤油・みりん・さとう・酒中心に、

事前に「割り下」を作って対応します。どうも市販の「割り下」は、

甘すぎるようで、上記(1)とは違い、すき焼きの場合は味付けはい

つも自家製です。

 (3)鍋の昔話

「水炊き」といっても、各地で地元レシピがあるでしょうし、「思い

で」もさまざまでしょう。

私が子供の頃は、地鶏をつぶし、塩味のシンプルなものだったかと思

います。とにかく白菜と豆腐をよく食べました。

もう一つ、「イノシシ鍋」は贅沢なイメージ。

父親の友人が「趣味」でイノシシ狩りをやっていて、おすそ分けに、

さずかったようです。味付けは醤油味でした。

「臭み消し」にいろんな野菜も入っていだでしょうが、ゴボウがたく

さんくらいしか覚えていません。

イノシシの肉は「皮の部分」も分厚くて、結構薄切りで仕上げても、

結構噛み応えがありました。

ごくたまの「すき焼き」は、父が甘いのがキライで、「塩味すきや

き」であり、子供には、いまいち不人気でした。

 

3.鍋料理は家庭料理

最近は諸般の事情があり、外で鍋料理は、あまり食べません。

以前は、鍋料理の締めに「雑炊」や「麺」を食べました。

外で、鍋料理は、友人・知人というより「仕事がらみ」が多く、鍋料

理の内容は、あまり記憶にありません。

私にとっては、時間をあまり気にせず、リラックスて、携帯ガスコン

ロに注意しながら、家族で食べるもの、のようです。

宝くじを買う心理 自分の努力や頑張りと無関係の「夢」を求めて?

1.私は宝くじを買うことがあります

(1)「趣味」や「マニア」からは、程遠く、場所や売り場を選ぶ

とか、買う日付や、買い方、番号等にこだわることは、ありません。

購入金額も、極めて少額です。

とはいえ、たまに買っていることは事実です。 そこで

「なぜだろう?」と、ちょっと自分の心理を、のぞいてみました。

(2)今の時代、私が疑問を持つ程度のことは、大抵ネット上に

回答、解説が、あふれています。

一般論を見ると「錯覚している」「わくわく感」「夢を買っている」 

といった説明が出てきます。なるほど、といったところところです。

ネット上の解説を孫引きしても、意味があると思えず、今日は勝手に
私なりのコメントを書いてみます。
 
2.「くじ」への錯覚について
(1)自分だけは違う、当たりやすい
そもそも、公平な「くじ」の場合は、単純明快な確率論のしです。
「自分だけが当たりやすい」ことはあり得ないわけで、また当たる
確率も収益も、「胴元の儲け」を引いた運を分配するわけですから
参加者を平均すると「損」をするのは当たり前のことです。
ウラを取ってはいません、日本の競輪競馬は「胴元は、売上の25%
から30%」を取るそうですね。
ラスベガスも、経営のうまくいっているカジノは胴元が10%台でも
「儲かる」体質を維持、結果「顧客への分配率」も高いと、聞いた
こともあります。
一方、日本の「宝くじ」は、50%程度を胴元が取る。正直、高額
ですよね。そもそも「宝くじ」の成り立ち自体が、他の事業への投資
資金を集めることが趣旨のようですから。
つまり、「顧客」からすると、回収率の悪いギャンブルです。
 上記の競輪・競馬、ラスベガスのホテル、宝くじ、どれも、集めた
お金から経費を引いて分配です。
ゆえに、元本自体が時間とともに膨らんでいくことを期待する株式
投資や不動産投資とは違います。
外国為替取引や債券取引は「ゼロサム」の世界で、また少し違いま
すが、いずれにせよ。「宝くじ」が、元本が減っている行為である
こと否めません。
(2)(戦略が当たった)という参加者の想い
 初めてくじを買った「高額当選」の人は、ビギナーズラックと
考えるし、一方継続的に宝くじを買い続けている人は長年の苦労(?)
が実って、ついに「高額当選」を引き当てたと感じるのでしょうが。
いずれの場合も、「錯覚」ですよね。
毎回、横井線、過去の魁夷はシャッフルして、抽選するわけですから
理論上「ビギナーズラック」も、「継続購入の成果」もあり得ない
わけです。

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今日はずばり「宝くじ」のイラストです。
3.購入時のワクワク感
 「ワクワク感、高揚感」について、少し考えてみます。
わくわくする対象は、それこそ、人により千差万別です。
経済的利益が全く期待できなくても、人はワクワクするもの。
事例を、あなたが日本人で、ある地域の出身だとします。
オリンピックで、日本人選手の活躍に、興奮し、応援します。
日本選手がが活躍して、結果として経済的利益を得る関係者も
皆無ではないですが「わくわく」する人の大半はそうでないで
しょう。
高校野球の夏の大会もそうでしょう。
自分の出身地の都道府県の高校が勝ち進んだところで、なんらか
経済的利益があるわけではありません。
勝手に「一体感」を作り出して、自分なりの物語を作って、「わくわく」
しているようです。
さて、「宝くじ」の場合、「万一当たった場合」の経済的利益
ありますが、「結果が見える前のわくわく感」は、また別物に
感じます。
当たれば、「ああしたい」、「こうしたい」というわくわく感は
下記で述べる「夢を買う」に通じることでしょう。
小坂井敏晶さん風に言うと「虚構」を作って、勝手に「わくわく感」
を楽しんでいる、ということでしょうか。
 
 
4.夢を買う
(1)生きている以上、誰しも「夢」があり、それは、みな違います。
まず取り上げる「夢」は、個人の努力や才能、めぐりあわせ等々が関
与する部分の「夢」とします。
誰しも夢の実現に向けて、子供のころや若いころからの学習や訓練、
経験上必要な部分は多いですが、がんばります。
それが広義も「教育」の一部を形成しているのでしょう。
こちらは、頑張ってたことが報われ、実利的に「身を立て、名をあげ」
た場合の「夢」です。
(2)しかしながら、そうでない「夢」を追いたくなるのも「人情」
しょう。
つまり、いくら頑張っても、自分でやれることは知れている。自分の実力
や取り巻く環境の、今後もある程度わかってきた。
とはいえ、自分の実力を超えた身分不相応の「いいこと」が自分に起き
ても悪くはないだろう、誰にも迷惑はかけないだろう。
この人生、「そうでもしないと、やってられない」こともあります。
そういった「夢」を追って買うのでしょうか
いろんな考え方がありますが、冒頭の「私はなぜ宝くじを買うのだろう?」
の答えは、どうもこんなところにありそうです。
 
 
 
 

李登輝(読書感想文もどき)実績を残した方は、言葉の重みが違います

李登輝

いま本当に伝えたいこと

早川友久/著

出版者    ビジネス社 2020.9

1.概要

李登輝が「現代を代表する政治家」の一人であることは否定する

人は、少ないと思います。

李登輝については、幾多の本が書かれています。

「鉄人王」という日本人監督の映画にもなったようです。

本書は、年齢的に李登輝の孫世代の日本人秘書が、書いたものです。

決断は素早く、そして柔軟な発想で。情報は常に複数の情報源から。

前例のない事態には前例のない対応を。

といった言葉の節々に、李登輝の考え方が現れます。

前日亡くなった「台湾民主化の父」が遺した日本人への最後のメッ

セージです。

(2)2020年を迎え,蔡英文総統の手腕のもと、台湾はうまくやっ

ているように思えます。

コロナ対策は無論、経済や、安全保障の面でも、そうです。

蔡英文は「李登輝の弟子」といってもいいでしょう。

これを書いている11月15日現在、米国大統領選挙の最終結果が見え

ません。トランプ政権からの交代があるとすれば、太平洋を取り巻く

情勢、軍事、経済バランスはまた一変するでしょうし、蔡英文政権

も、一層難しいかじ取りを余儀なくされるでしょう。

改めて李登輝の言葉を、追っていきたいと思います。

  

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台湾は九州くらいの大きさです。

2.本文から引用

リーダーは信仰を持て。信仰がないなら信念を持て。

孤独なリーダーは、すがることのできるものを必ず持つのだ。P18

 

政治であれ、ビジネスであれ、完全を求めてはならない。目標の実現

に向けて100%の努力を惜しまないのは当然だが、必ずしも100%の結

果を得られるとは限らない。

その場合でも、7割が達成されて入れば『よし』とする姿勢をリーダ

ーは身につけなければいけない    P28

 

李登輝の考え方の根本は、

『台湾は中華民国』という発想の出発点そのものを捨てる

ということ。李登輝が提唱したのが「脱古改新」であった。

「古のものから脱却しよう。そして全く新しいものに改めるの

だ。」  P 59-60

 

教養は万能ではない。実践が伴ってはじめて意味をなす     P70

 

李登輝は、中国の圧力によって台湾の国際空間が狭められることは、

おそらく予期していたのだろう。だからこそ、中華人民共和国からの

圧力をはねのけ「中国」というものを巡って争うことを避けるために

中華民国の台湾化に向かったのである。 P94

 

 権力とは、一人ひとりに与えられた力ではなく、必要なときにだけ、

取り出して使うことができるものにすぎない。事に当たるには権力が

不可欠だが、いつでもそれを手放す覚悟がなくてはならない。

つまり、権力とは『借り物』であって、使い終わったら国民に

返すべきものなのだ。   P134

 

「それでも蒋経国は『中華民国』あるいは『国民党』をいかにして維

持していくか、という信念に基づいて政治を行っていた。

批判はあるが、指導者には信念が必要だということを学んだのも蒋経

国からだ。  P147

 

個人の感情や価値判断よりも、国家や国民の利益を優先させよ。

P156

 

あの時代、日本は理想的な日本人を作り上げようとした。そうやって

出来上がったのが私という人間なんだ。  P168

 

日本時代に叩き込まれた『公』のために尽くす精神。これがあったか

らこそ、苦しかった台湾の民主化もあきらめることなく成し遂げたれ

たんだ。台湾の民主化に成功は、日本教育のおかげだ。 P196

 

(著者早川氏の言葉)

現在、台湾に住む人々が民主主義や自由を当然の権利のように享受し

ている裏側には、李登輝をはじめとする多くに台湾人の苦難と涙の歴

史が隠されているのである。  p208

 

3.最後に

 別段、難しい表現、概念を理解するために深い予備知識が必要は言葉

はありません。

内容は、「まさにおっしゃるとおり」腑に落ちます。とりわけ反論も

ありません。

「真実は、常に単純である」と納得もします。

世の中に流布している名言・格言同様ある意味で、「誰でも言える

言葉」かもかもしれません。

しかし読み手の心に響くのは「実績」の裏打ちされた人間の言葉

だからであり、また言葉の重みを感じるのでしょう。

 

頑張る高齢者再論 周りの反応という報酬があるから、頑張る? 元気の補完材料も多々。

1.頑張る高齢者

先日11月2日のこのブログ

「好きなこと」に頑張れる高齢者は、うらやましい いろんな要素が積み重なって、でしょうが・・・ - 中高年michiのサバイバル日記

において、頑張る高齢者は、好きなことだからやっている、という
ことを書きました。
トランプ大統領について、引用すると)

聞くところによると、大富豪であるし、経済的に「働かざる

を得ない」訳ではありません。しかし、高邁な自分の理想

実現のため、万難を排して頑張っているのでしょう。

誤解を承知で私見ですが、本人の意志は認めますが、煎じ

めると「好きで」やっているように思えます。

今日は、高齢者について、肉体的、精神的、頭脳的制約の点から
少し深掘りで、考えようと思います。
 
2.改めて米国大統領選挙
(1)投票日は、11月3日でした。
視点は77歳もうすぐ78歳のバイデンと74歳の高齢者同士の争いは
老人サークルの主導権争いと言ってもいろんな世界で通用しそう
です。
 私のトランプ氏に対する印象は、「それにしても元気」
トランプは選挙活動最終日、全米の5州周り演説、との報道があり
ました。
空港で、大統領専用機から降り立ちそこで演説する様子は、主に
Youtubeで見ました。
いくら「好き」でも、肉体的、精神的、頭脳的に一定のレベルを
維持しないと、この行動は、無理だったでしょう。
(2)これを書いているのは11月13日
まだまだ選挙結果は、未判明のようです。
SNS上でも、議論が継続して盛り上がっていると聞きます。
トランプ氏サイドの法廷闘争の動き、マスメディアの「反トラ
ンプ報道」については、ココでは、書きません。
当たりまえですが、選挙結果にかかわらず、来年1月20日までは
トランプ氏の任期ですが、台湾・中国問題はじめ外交問題、ベテ
ランズディはじめ国内対応と、精力的に、活動しているようです。 
いずれにしても、選挙の憲法上の最終結果は12月半ばまでに判明
とのことです。
 

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私はできませんが、あこがれの農家の高齢者のイラスト
3.頑張る高齢者再論
少し、「硬め」のことを書きます。
多くの人間は、なんらかの周りの反応、それを広義の報酬と捉えて、
自分の存在意義を確認することで生きていける、と思います。
金銭の対価というのは解り易いですが、家事、育児他直接金銭に
表現しにくい事項も多々あり、またボランティア活動もあります。
感謝や尊敬、批判、避難なんでもいいですが、周りの反応を求める、
ことで自分の存在を確認といったとこころでしょう。
たとえば、「自分の考えや著作は、同世代には理解不能後後世の
人にしかわからない人にしか解らない、自分は時代より早すぎた」
と、思っている人もいるでしょう。
確かに、「自分は、ドストエフスキーと同じ」とうそぶいてみても、
上記理論でいうと、自分は、未来にはもう存在しないわけで「検証」
はできないことになります。
まあ、誰にも迷惑なことでないし、よしとしましょう。
この、章での結論として
「高齢者も、経済的利益のみに限定されず「周りの反応」という
報酬を得ることで頑張ってしまう。」ということにします。
 
 4.「頑張り」のための補完材料
経済環境・衛生環境の寄与(戦争も過去より少なくなった)、広義
の医療制度の充実が、補完材料であることは、論を待ちません。
元気で頑張り可能な高齢者は、増えていき、生物としての人類の寿
命でなく「健康寿命」が延びているのは、事実です。世界的にも・・
補完材料として、もうすこしテクニカルなことを書きます。
視力衰えは仕方ないとして、PCやスマホタブレット端末で、拡
大機能で文字が読めるのは、私にとっては重要。大きさの微調整は
、魅力です。
実は、岩波文庫の小さい文字は、もはや読むのがつらいのです。
  
5.最後に
「頑張る高齢者再論」といってもトランプ氏というある意味
「特殊事例」で述べてきました。
今後高齢者となるオマエはどうなんだ、と詰められそうですが、
まあだまだ「経済的利益」を提供することで「周りから評価」
を獲得しなければ、ならない、レベルです。